これは、ノーマン・メイラーが“ヒップスター”の資質について語る表現に重なる。ということは、60年代や70年代よりも、50年代のアウトサイダーの感覚に近い。そんなわけで、当然といえば当然のことだが、若者たちにドロップアウトを訴えるティモシー・リアリーやそれを応援するギンズバーグなどは、「オマルに坐った有名人たちの自己宣伝」ということで退けられてしまう。
こういうことをヒッピー・ムーヴメントが盛り上がっているときに書いている人というのは、筆者には単なるへそ曲がりではなく、飛び抜けて真っ当な人間に思える。要するに、人間同士がつるんだり、同じ方向を向くということに我慢がならないのだ。
『ありきたりの狂気の物語』では、薄汚れた路上の世界を背景に、ブコウスキーが言うところのこの“自由な魂”の有り様が、感傷を排した乾いた文体で綴られていく。その物語は、妄想的な飛躍や脱線も多々あり、だらだら垂れ流されているようにも見えるのだが、それがふっと抜ける瞬間に、痛みや悲しみといった感情が滲み出し、ずるずると引き込まれてしまう。
では、この独特のスタイルは、どのようにして生み出されたのかといえば、その手がかりになるのが『くそったれ!少年時代』だろう。これは、ドイツに生まれ、三才のときに家族とアメリカに渡ってきたブコウスキーが、彼の分身ともいえる主人公ヘンリー・チナスキーを語り手として、小さい頃の最初の記憶から成人するまでの体験を綴る自伝的長編だ。
この作品は、彼の長編のなかでも傑作と評価されているが、本当に素晴らしい。ブコウスキーは、当時(20〜30年代)の背景を克明に描きながら、主人公の成長をストレートに綴っていく。回想が自然とたぐりよせる感傷のようなものは見事に削ぎ落とされ、現代の感覚でまったく違和感なく読め、主人公の感情が妙に生々しく伝わってくる。
もちろんそこには、青春小説ならではの普遍的なテーマを扱っているからということもある。だがやはり筆者には、ブコウスキーという人が、時代の流れや変化といったことにまったく動かされることなく、“自由な魂”で生きつづけてきたからではないかと思える。彼がこの長編を書き出したのは80年ということだが、少年時代からその時点まで、本質的な部分では何も変わっていないということだ。
但し、これは強靱な意志というのとは明らかに違う。彼がただの強靱な意志の持ち主であったとしたら、おそらくずっと昔に当たり前に立派な小説家の先生になっていたに違いない。『くそったれ!少年時代』には、家庭、学校、職場といった共同体が主人公を捩じ曲げていく様がありありと描きだされている。
そういう意味では、彼は、敗者であり、落伍者、臆病者で嘘つきでもある。その上、この小説では、弱者や醜い者、敗残者ばかりを自然と引き寄せてしまう自分のことを「蠅がたかる糞のような存在ではないか」と書いているが、そんな糞の立場をそれしか道がなかったかのように押し通すというのも並大抵のことではない。
記憶が少々曖昧だが、この二冊の本には、それぞれ一回だけ“ゲルマン魂”、あるいはそれに類する表現が出てきたように思う。もちろんそれは皮肉な使い方だったはずだが、ブコウスキーの一貫した姿勢や生き様は、もしかすると“糞まみれのゲルマン魂”と表現するのが相応しいのかもしれない。 |