たとえば、フェレーリ作品の重要な要素になっている母性だ。この映画では、それが実にさり気ない流れのなかから浮かび上がってくる。主人公の詩人と娼婦の絆は、いまにも崩れそうな不安定なもので、女が姿を消してしまうこともあれば、男が他の女を連れ込んで、冷酷な仕打ちに出ることもある。そんななかで追い詰められる詩人は、救いを求めて丸々と太った女に会いに行く。そして、女を肉体的にねじ伏せようと奮闘するが、逆に落ち込み、浮浪者として町を彷徨いだす。
そこで、『最後の晩餐』を思いだしてみよう。男たちは、彼らが呼んだ娼婦たちが退散してしまった後、そこに残った太った女の教師によって死に導かれていく。フェレーリ作品の男たちは、母性を求めると同時に、それを恐れ、この映画の詩人のように、母性を快楽の対象にすり替えようともがきながら、力尽きていく。
この映画には、詩人をめぐって何人かの女たちが登場するが、その流れは何とも象徴的だ。最初に詩人が尾行してモノにする女は、強姦願望を持つセックスマニアで、それから美しい娼婦キャスに出会い、今度は太った女が登場する。要するに、キャスというのは、快楽と母性の狭間で、自分の肉体を傷つけている危うく儚い存在といえる。
主人公の詩人は、キャスの快楽と母性に導かれるように創作のインスピレーションを得る。それは引き裂かれるような苦痛であり、恍惚でもあるのだろう。汚れたアパートで、傷ついた娼婦を背にして、酒を浴びながらマシンガンのようにタイプライターを叩く男の姿には鬼気迫るものがある。
この映画は、多くのフェレーリ作品がそうであるように、都市への言及で始まり、海辺で幕を下ろす。その海辺で詩人は、偶然出会った少女の美しい肉体に、失われたキャスの快楽と母性を垣間見る。そんなラストには胸を締めつけられることだろう。 |