ノルウェーの俊英ベント・ハーメル監督の『酔いどれ詩人になるまえに』は、アメリカ文学界の異端児チャールズ・ブコウスキーの下積み時代をもとにした自伝的小説『勝手に生きろ!』の映画化である。
小説の時代背景は、大学を中退したブコウスキーが、アメリカ各地を放浪し、無頼の生活を送っていた1940年代。ブコウスキーの分身である主人公ヘンリー・チナスキーは、セントルイス、ニューヨーク、フィラデルフィア、マイアミ、そして地元ロサンゼルスなどを転々としていく。彼は、食べるために様々な仕事につくものの、どれも長続きしない。そして、酒と女とギャンブルに溺れ、荒んだ生活を送りながらも、詩や短編を書き、出版社に送り続ける。
この映画では、そんなチナスキー=ブコウスキーの型破りな生き様に関心が集まることだろうが、ハーメル監督の視点も見逃すわけにはいかない。彼の前作『キッチン・ストーリー』とこの映画には、実に興味深い共通点がある。
1950年代のノルウェーの田舎町を舞台にした『キッチン・ストーリー』では、一人暮らしの老人のもとに、スウェーデンの「家庭研究所」から調査員が派遣され、独身男性の台所における行動パターンの観察を始める。その調査には、会話や交流を禁じる規則があるため、調査員と老人は、監視する者と監視される者になる。『酔いどれ詩人になるまえに』のチナスキーは、仕事にはつくが、すぐにサボりだし、バーや競馬場に向かう。上司は彼を監視し、クビを言い渡す。そんな駆け引きが何度も繰り返される。
ハーメルが関心を持っているのは、この監視する者とされる者の関係の背後にある合理化だ。『キッチン・ストーリー』の調査員が集めたデータは、生活の合理化のために利用される。だが人は、ロボットのように合理的に行動するわけではない。だからこそ個性があり、他者との関係が生まれる。老人と調査員は、規則を破り、そこから人間性が見えてくる。ドラマはいたってほのぼのとしているが、そこには深いテーマが埋め込まれている。
そして、『酔いどれ詩人になるまえに』では、合理化と人間性に対するハーメルの視野がさらに広がっていく。この映画でまず印象に残るのは、場所や時代が曖昧にされていることだ。原作の背景は、第二次大戦の最中から戦後に至る時代だが、映画では、工場の経営者のデスクの上にパソコンがあったり、台詞のなかに防犯カメラという言葉が出てくる。しかし、ひどく古びた家具や調度などを見ると、完全に現代とも言い切れない。戦後に合理化が進んだ世界であれば、どこでも当てはまるようなタイムレスな空間なのだ。
社会学者のジョージ・リッツアが『マグドナルド化する社会』のなかで明確にしているように、徹底した合理化=マクドナルド化は、生活を便利にし、多大な利益を生み出したが、それと同時に、消費者と従業員の脱人間化、コミュニケーションや個人の創造性の排除、均質化といった結果も生み出した。ハーメルがブコウスキーの原作に引かれたのは、そんな現実と無縁ではないだろう。 |