酔いどれ詩人になるまえに
Factotum


2005年/アメリカ=ノルウェー/カラー/94分/アメリカンビスタ/ドルビーデジタル
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(初出:「キネマ旬報」2007年8月下旬号)

 

 

合理化と人間性、自分自身を表現することの意味

 

 ノルウェーの俊英ベント・ハーメル監督の『酔いどれ詩人になるまえに』は、アメリカ文学界の異端児チャールズ・ブコウスキーの下積み時代をもとにした自伝的小説『勝手に生きろ!』の映画化である。

 小説の時代背景は、大学を中退したブコウスキーが、アメリカ各地を放浪し、無頼の生活を送っていた1940年代。ブコウスキーの分身である主人公ヘンリー・チナスキーは、セントルイス、ニューヨーク、フィラデルフィア、マイアミ、そして地元ロサンゼルスなどを転々としていく。彼は、食べるために様々な仕事につくものの、どれも長続きしない。そして、酒と女とギャンブルに溺れ、荒んだ生活を送りながらも、詩や短編を書き、出版社に送り続ける。

 この映画では、そんなチナスキー=ブコウスキーの型破りな生き様に関心が集まることだろうが、ハーメル監督の視点も見逃すわけにはいかない。彼の前作『キッチン・ストーリー』とこの映画には、実に興味深い共通点がある。

 1950年代のノルウェーの田舎町を舞台にした『キッチン・ストーリー』では、一人暮らしの老人のもとに、スウェーデンの「家庭研究所」から調査員が派遣され、独身男性の台所における行動パターンの観察を始める。その調査には、会話や交流を禁じる規則があるため、調査員と老人は、監視する者と監視される者になる。『酔いどれ詩人になるまえに』のチナスキーは、仕事にはつくが、すぐにサボりだし、バーや競馬場に向かう。上司は彼を監視し、クビを言い渡す。そんな駆け引きが何度も繰り返される。

 ハーメルが関心を持っているのは、この監視する者とされる者の関係の背後にある合理化だ。『キッチン・ストーリー』の調査員が集めたデータは、生活の合理化のために利用される。だが人は、ロボットのように合理的に行動するわけではない。だからこそ個性があり、他者との関係が生まれる。老人と調査員は、規則を破り、そこから人間性が見えてくる。ドラマはいたってほのぼのとしているが、そこには深いテーマが埋め込まれている。

 そして、『酔いどれ詩人になるまえに』では、合理化と人間性に対するハーメルの視野がさらに広がっていく。この映画でまず印象に残るのは、場所や時代が曖昧にされていることだ。原作の背景は、第二次大戦の最中から戦後に至る時代だが、映画では、工場の経営者のデスクの上にパソコンがあったり、台詞のなかに防犯カメラという言葉が出てくる。しかし、ひどく古びた家具や調度などを見ると、完全に現代とも言い切れない。戦後に合理化が進んだ世界であれば、どこでも当てはまるようなタイムレスな空間なのだ。

 社会学者のジョージ・リッツアが『マグドナルド化する社会』のなかで明確にしているように、徹底した合理化=マクドナルド化は、生活を便利にし、多大な利益を生み出したが、それと同時に、消費者と従業員の脱人間化、コミュニケーションや個人の創造性の排除、均質化といった結果も生み出した。ハーメルがブコウスキーの原作に引かれたのは、そんな現実と無縁ではないだろう。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/製作   ベント・ハーメル
Bent Hamer
脚本/製作 ジム・スターク
Jim Stark

原作

チャールズ・ブコウスキー
Charles Bukowski
撮影 ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド
John Christian Rosenlund
編集 パル・ジェンゲンバッハ
Pal Gengenbach
音楽 クリスティン・アスビョルンセン、トルド・グスタフセン
Khristin Asbjornsen, Tord Gustavsen
 
◆キャスト◆
 
ヘンリー・
チナスキー
  マット・ディロン
Matt Dillon
ジャン リリ・テイラー
Lili Taylor
ローラ マリサ・トメイ
Marisa Tomei
マニー フィッシャー・スティーヴンス
Fisher Stevens
ピエール ディディエ・フラマン
Didier Flamand
ジェリー エイドリアン・シェリー
Adrienne Shelly
グレース カレン・ヤング
Karen Young
-
(配給: バップ+ロングライド )
 

 その原作には、マクドナルド化の先駆けとなった作業ラインについて、以下のような記述がある。「おれは自分の持ち場へ向かった。合図の笛が鳴って、機械が作動しはじめた。犬のビスケットが動き出す。生地が型で打ち抜かれ、縁が鉄でできた重い金網の上に並べられる。おれは網を掴み、うしろのオーブンに入れる。振り返ると次の網が来てる。ペースを落とす方法はなかった」。映画には、ビスケット工場ではなく、ピクルス工場の作業ラインが出てくる。リッツアは、その作業ラインについて、以下のように書いている。「人間的な作業能力を発揮するかわりに、人びとは人間性を否定し、ロボットのように振る舞うことを強制される。人びとは作業のなかで自分自身を表現することができない」

 ハーメルはこの映画で、チナスキーを通して、単にリアルな人間ブコウスキーを描き出そうとしているのではない。チナスキーを取り巻く世界と彼が書くことの関係を、独自の視点でとらえようとしているのだ。人間性を否定するような仕事を拒み、酒や女やギャンブルに溺れるのは、チナスキーだけではない。では、彼は他の人間とどこが違うのか。もちろん彼は作家を目指しているが、思い込みだけではその願望を叶えることはできない。重要なことは、リッツアの言葉にあるように、「人びとは作業のなかで自分自身を表現することができない」という現実に、どれだけ自覚的になれるかということだろう。

 『酔いどれ詩人になるまえに』のチナスキーは、原作以上に言葉に執着する。彼のモノローグには、原作だけではなく、それ以後に刊行されたブコウスキーの詩集や小説からも様々な言葉が引用されている。ハーメルは、タイムレスな空間を彷徨うチナスキー=ブコウスキーを通して、彼が自分自身を表現することの意味を掘り下げているのだ。

《参照/引用文献》
『勝手に生きろ!』チャールズ・ブコウスキー●
都甲幸治訳(河出文庫、2007年)
『マクドナルド化する社会』ジョージ・リッツア●
正岡寛司監訳(早稲田大学出版部、1999年)

(upload:2009/02/01)
 
 
《関連リンク》
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