ニルス・ミュラー・インタビュー

2005年 4月 新宿 パークハイアット東京

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(初出:「CD Journal」2005年6月号、加筆)

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――その「イノセンスをなくした時代」という表現で私が思い出すのは、50年代末に起こったクイズ番組のスキャンダルを題材にしたロバート・レッドフォード監督の『クイズ・ショウ』のことです。そのクイズ番組では、ハービーという風采のあがらないユダヤ系の男がチャンピオンになっているのですが、彼が視聴者に飽きられたため、スポンサーはもっとテレビ向きのチャンピオンが必要だと考え、やらせによって、名家の子息で大学講師のチャーリー・ヴァン・ドーレンをチャンピオンに仕立てあげます。視聴者は彼に熱狂しますが、やがてやらせが露見します。

 ジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムが書いた『ザ・フィフティーズ』によれば、当時の識者たちは、この事件を「アメリカの無垢な時代の終焉」と呼んだといいます。事件が露見し、チャーリーがやらせを証言したのは59年のことで、その翌年には、JFKが、ニクソンとのテレビ討論会によって形勢を逆転し、大統領になります。つまり、テレビが政治にも多大な影響を及ぼすようになり、極端なことをいえば、本質よりも表層が人を動かすようになる。

 あなたのこの映画は、そうした社会の変化の延長線上にある世界をとらえていると思います。たとえば、テレビはロールモデルを生み出すが、この映画のニクソンとサムの上司の関係に垣間見られるように、偽りのロールモデルが社会を腐らせていくことにもなる。あなたは、そうした70年代以前の社会の変化とこの映画の繋がりをどのように考えますか?

「その「無垢な時代の終焉」には賛同できないけれども、その59年を終わりの始まりととらえることはできるかもしれない。結局、問題は70年代に繋がっていく。私は、サムの存在を知る前には、ジョンソン大統領を暗殺しようとする脚本を書いていました。私がその題材にたどり着いたのは、それ以前からの時代の流れを考察してきた結果であって、言ってみれば50年代にあったことがシフトしたというか、その揺れをずっと引きずってきたのだと思います。だから、その50年代末を終焉だとは思わないけれども、その始まりと見ることはできる。

  特に、テレビの影響については賛同できます。私は、大学の映画学科を出たものの、お金がなくて、サムといい勝負のひどい状況になっていました。そんなとき、夜中にテレビを見ていたら、64年の大統領選に関するドキュメンタリーをやっていた。あなたが言うように、60年の大統領選では、ニクソンがみっともない格好でケネディに敗れた。そして、64年の大統領選のときには、そのテレビの力が認知されていたので、広告代理店が雇われ、テレビのなかでいかにうまく見せるか、表層的なものでいかに人々の心をとらえるかということに大金をかけていた。そこで、ジョンソン大統領を暗殺しようとする話を書いていたら、そっくりなことが実際にあったことがわかり、実話に沿ってニクソン大統領に変えたのです。

  私は、この映画の資金を得るためにたくさんの人と話をしました。そのひとりがフランシス・フォード・コッポラで、彼から、なんでこんな人間が出てきたのかと尋ねられました。そのとき私がすぐに思ったのはテレビのことでした。彼はかなりテレビに毒されていた。そもそも人間という生き物は、周りの環境を自分でコントロールしたいと思う。周りに動かされて自分が何かをするというのがいやなんですね。ところが、テレビというのは、ただ受け入れるしかない。だから、みんなテレビを見ながら苛立っている。しかし、テレビを罵っても実際には何も変わらない。そういう意味では、サムというのは、テレビが作るどうにもならない環境に犯され、フラストレーションを溜め込んでいった存在ではないかと思います。そして、これからはインターネットがフラストレーションを生むことになるかもしれません」

――たとえば、これまでは、父親とかがロールモデルだったのに対して、テレビがロールモデルを生み出すようになる。ところが、ニクソンとサムの上司の繋がりが物語るように、そのモデルは偽りかもしれなくて、社会を腐敗させていくことにもなる。

「いまおっしゃったことには、そのまま同意します。この映画のなかで、直接的に描いてはいないことではあっても、それはひとつの見識だと思います。なぜなら、この映画を作ったときに私が思っていたことは、自分の手を離れたときに、人々が別の理解の仕方をしてくれることでした。私自身は、いまおっしゃったようには理解していなかったのですが、そういう解釈は成り立つと思います」


 


――この映画のサムは、常にテレビを通して世界を見ています。彼は、テレビのなかのニクソンを憎むようになり、ホワイトハウスに庭に着陸したヘリのニュースを観て、暗殺を思い立つ。テレビでブラックパンサーを見て、実際に彼らに会いにいく場面もありますが、パンサーの事務所のなかで彼は浮いた存在といえます。彼は、それほど政治的な人間ではなく、ビジネスと家族のことを考えている。そんな彼は、テレビで見たものを組み合わせて、暗殺を計画し、直接会うこともないバースタインに語りかける。彼は、自分の頭のなかでは本物のニクソンを暗殺しようと考えているわけですが、突き詰めれば彼が暗殺しようとしているのは、テレビのなかに存在するニクソンのイメージだともいえると思います。だからこの映画では、俳優がニクソンを演じる必要がない。そして、このことをさらに突き詰めると、彼がテレビのなかのニクソンを暗殺しようとするということは、本質的にはニクソンよりもこのメディアや社会のシステムを暗殺しようとしたといえると思うのですが。

「その通りです。ジョンソン暗殺の話は、30ページくらい書いたんです。そうしたら、実在の人物がいることがわかって、ニクソンにスイッチした。そのときに私が考えていたことは、サムは本当にニクソンを殺そうとしたのではなく、自分を拒否し、認めようとしないシステムを殺そうとしたのだということでした。彼は、そういうものに対して戦っていたのだと私はは解釈していました」

――それでは、今度はこの映画と現代との繋がりについてお尋ねします。サムの企ては、9・11によってリアリティを持つことになりました。そのためにこの映画は、頻繁に9・11と結びつけて語られますが、この映画を観て私が思い出したのは、コロンバイン高校銃乱射事件を起こしたエリックとディランが、飛行機をハイジャックしてニューヨークに墜落させるというテロを計画していたということです。それはもちろん実行されたわけではありませんが、現代社会のなかで疎外され、孤立する個人は、そういうことを計画する可能性がある。そういう現実を踏まえてみると、この映画は、現代的なテーマを扱っていると思うのですが。

「コロンバインの事件が起こったときには、すでに脚本は書き上げていたのですが、この事件にはすごく考えさせられました。作り話ではなく、現実にサムのような人間がいること、それがもっと増えているということ。現実の方が自分が作るものを超えているかもしれないのに、それでも作る意味があるのかとも考えました。しかし、やはりこれは真実であり、本当の人間の話であるのだから、作るべきだという結論に至りました。
 そして、この話は、たとえば空港で9・11のようなことを目の前にしたら、私自身も暴力を阻止しようとする気持ちがあることを前提に聞いてほしいのですが、アメリカのメディアの一番の問題は、なぜそういうことになったのかという背景を明らかにしようとするのではなく、結果だけを見て、こいつらはとんでもない奴らだった、そんなモンスターを描いて事件を片付けてしまうことだと思います。一番大事なことは、行動そのものを裁くことではない。私たちは、なぜそうなったかという背景にしっかりと目を向けなければならない。あなたがおっしゃるように、これからも小さな事件が起こると思いますが、私は、なぜそういうことになったかを常に提示していきたいと思います」

 
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(upload:2007/02/17)
 
 
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