デヴィッド・クローネンバーグの新作『スパイダー/少年は蜘蛛にキスをする』の主人公は、精神療養施設から出てきたと思しき男である。彼は、何かに憑かれたように日記を綴り、少年時代を詳細に再現していくことで、彼の人生を狂わせた母親の死に迫ろうとする。かつてスパイダーと呼ばれていた彼が張り巡らすそんな言葉の糸=フラッシュバックの映像は、イヴォンヌという娼婦に溺れた父親が、母親を殺害し、娼婦を家に引き入れたことを物語るが――。
クローネンバーグのファンは、彼が繰り出すグロテスクな表現に期待しているかもしれない。パトリック・マグラアの原作小説には、食事をするスパイダー少年がジャガイモを切ると、なかから血が流れだしてくるなど、監督の想像力を刺激しそうなイメージが盛り込まれている。
「脚本の第一校にはジャガイモから血が流れる場面があり、実際に視覚効果のスタッフにそういったものを作ってもらったりもしたのですが、撮影に入ってみると、それが不要だと思えるようになりました。この映画で重要なのは少年の妄想、彼がイヴォンヌという女性を作り上げていることです。でも、いかにも妄想であるようには描きませんでした。妄想を抱いている人間自身は、それが妄想だとは思っていない。本当に見えていると信じ込んでいるわけです。そこで、血が流れるジャガイモなどを使ってしまうと、観客が現実との距離を感じてしまい、妄想の持つリアリティが薄れてしまう。また、作品がホラー映画のタッチになってしまうという危惧もあり、使うのをやめました。少年はイヴォンヌという妄想にとらわれ、母親が殺されたことを確信している。ある意味で、そんな記憶そのものが妄想なのです」
グロテスクな表現はあくまでひとつの手段に過ぎない。たとえば、タイプライターが不気味な虫に変容するような表現が印象的な『裸のランチ』とこの新作は、映像のイメージはまったく違うが、人間の内面を見つめる視点には共通するものがある。
クローネンバーグは『裸のランチ』で、明確なプロットもなく映画化が困難なウィリアム・S・バロウズの原作小説を無理やり映画にするのではなく、異なるアプローチを編みだした。自分の妻を誤って射殺したバロウズが、圧倒的な喪失感に苛まれ、書く以外に出口がないところまで追い詰められた事実に着目し、狂気と対峙しながら小説「裸のランチ」の世界を創造していく人間の物語を作り上げたのだ。 |