デイヴィッド・クローネンバーグの『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の主要な舞台となるのは、アメリカ中西部にある、時代から取り残されたような田舎町だ。ダイナーを営むトムと弁護士の妻エディは、二人の子供たちと平穏な生活を送っていた。だが、トムのダイナーが二人組の凶悪な強盗に襲われたことがきっかけとなって、家族の絆が次第に揺らいでいく。
一瞬の隙を突いて強盗から銃を奪ったトムは、彼らを正当防衛で射殺し、町のヒーローとしてメディアの注目を浴びる。やがてトムやエディの前に、顔に惨たらしい傷が残るフォガティという男が現れ、トムのことを親しげにジョーイと呼び、付きまとうようになる。エディは、男が語る夫のおぞましい過去を信じようとはしないが、家族に危機が迫った時、彼が豹変する姿を目の当たりにする。
トムとジョーイという二重性から生じる混乱や葛藤は、過去のクローネンバーグ作品と様々な接点を持っている。『スパイダー』の主人公が、施設を仕切る夫人を殺害しようとするときに、妄想に隠された自己と向き合うように、トムも暴力を通してジョーイに目覚める。エディは、『M.バタフライ』の外交官と同じように、愛する者の正体を知り、複雑な葛藤を強いられる。トムとジョーイは、『戦慄の絆』の双子のように、分かち難く結びついている。
この新作で、そんなテーマを掘り下げるために重要な役割を果たしているのが、空間と人物の関係が生み出す境界だろう。映画は、二人組の男たちがモーテルを出るところから始まる(この場面は長回しが効果的だ)。
年上の男が相棒に、車をフロントの正面に回しておくように命じ、チェックアウトするために姿を消す。戻ってきた男は、飲み水がほとんど無いことに気づき、相棒に補給してくるように命じる。相棒がフロントに行くと、そこには死体が転がっているが、彼は動じることもなく、水を補給する。その時、フロント脇の扉から少女が現れ、彼は少女に銃を向け、銃声が響く。次の瞬間、場面は切り替わり、悪い夢を見たトムの幼い娘サラが、叫び声を上げている。
この映画ではそんな導入部から、平穏な日常に押し入る者と日常を守ろうとする者の緊迫したせめぎ合いが生々しく描き出されていく。ダイナーに押し入る二人組の強盗。満席のダイナーに居座るフォガティと手下たち。そして、静かな田舎町のなかで、トムや家族に執拗に付きまとう彼らの黒塗りのセダン。境界を侵犯することが異様な緊張を生み出す。
だが、トムの二重性が明らかになるに従って、明確だったはずの境界は歪み出し、揺らぎ出す。そして、映画のラストでは、過去を抹殺し、清算してきた彼が、我が家に戻り、妻子と向き合う。そこには重苦しい空気が漂うが、その原因は、必ずしも彼と妻子の間の溝や境界にあるわけではない。
田舎町の平穏な日常と暴力が支配する裏社会を対置すれば、そこには明確な境界があるように見える。だが、どんな世界に生きていたとしても人間の肉体や内面の次元では、決して明確な境界があるわけではない。
たとえば、セックスでは、欲望と暴力の境界が曖昧になる。事件が起こる前、エディは、夫婦水入らずの夜に、チアガールのコスプレで温厚な夫の欲望を刺激しようとする。夫の正体を知った彼女は、激しく自分を求めてくるトム/ジョーイを、理性では拒んでいるが、肉体は受け入れ、これまでにない興奮を覚える。 |