カナダ出身の鬼才デイヴィッド・クローネンバーグは、登場人物たちが様々なかたちで肉体と精神のバランスを欠いていく状況を通して、人間というものの複雑さや本性を描きだしてきた。特に『ビデオドローム』や『ザ・フライ』といった作品では、壮絶な肉体の変容劇が強烈な印象を残すが、それはあくまでひとつの手段に過ぎない。
パトリック・マグラアの同名小説を映画化した新作『スパイダー』では、そんな過激な表現を封印したドラマが逆にわれわれの想像力を刺激し、この監督ならではの主題が鮮明になっていく。
この映画には、『裸のランチ』に通じる魅力がある。クローネンバーグは『裸のランチ』で、明確なプロットもなく映画化が困難なウィリアム・S・バロウズの原作を無理やり映画にするのではなく、まったく異なるアプローチを編みだした。妻を誤って射殺したバロウズが、圧倒的な喪失感に苛まれ、書く以外に出口がないところまで追い詰められた事実に着目し、狂気と対峙しながら「裸のランチ」を創造していく人間の物語を作り上げた。
『スパイダー』もまた、母親の死という圧倒的な喪失と書くことをめぐる物語だが、ふたつの要素の関係は『裸のランチ』とは逆になっている。精神療養施設から出てきたと思しき主人公は、憑かれたように日記を綴り、少年時代を詳細に再現することで、彼の人生を狂わせた母親の死に迫っていく。
かつてスパイダーと呼ばれていた主人公が、まわりに張り巡らしていくそんな言葉の糸は、パブで客を漁る娼婦に溺れた父親が、母親を殺害し、娼婦を家に引き入れたことを物語る。だが、記憶が真実を語っているとは限らない。 |