『echoes』でデビューした舩橋淳監督の新作『ビッグ・リバー』では、三人の登場人物が、アリゾナの砂漠で偶然に出会い、行動をともにしていく。その三人とは、日本人のバックパッカーの哲平と妻を探すパキスタン人のアリ、そして祖父とトレーラーハウスで暮らすアメリカ人のサラだ。
このロード・ムーヴィーは、他者との関係が政治的な力によって図式化されていく時代に、他者性を見つめなおそうとする作品だといえる。
「『ビッグ・リバー』の出発点は、実はそこなんです。他者としてアメリカを見つめる、内部のアメリカ人の視点とは違ったところから見つめる映画があるべきではないかと。米国は立前としては自由と民主主義の国ですが、特に9・11以降、いろいろな歪みが現実に出てきている。自分の味方か敵かという単純な二元論に向かう動きが強いですよね。それに逆らい得るのが映画だと思うのですが、ブッシュに対するアンチとして反体制映画を撮るのでは、結果としてその二元論的な風景に回収されてしまう。ゴダールが、マイケル・ムーアの『華氏911』を観て、ブッシュを批判しているようで、実は彼に利することをやっているのに気づいていないと語っていたんですが、まさにその通りで、単純化に加担するようなかたちで映画を作ってはならないという思いが、『ビッグ・リバー』の背景にあります」
この映画では、風景、映像、台詞、アトラクションなど、様々なかたちで西部劇が参照される。
「9・11の直後、アリゾナのメサという町のガソリンスタンドで、シーク教徒が、「アメリカを擁護する」と叫ぶ男にショットガンで射殺される事件があったんです。そこでアリゾナという土地について調べてみると、フォードやホークスが西部劇を撮った場所なんですね。ならばその男は、インディアンを撃つように撃ったのか、と想像したんです。それはもちろん現実離れした野蛮な妄想なんですが、その西部の荒野と現代アメリカの荒廃を繋げてみたら、映画になるのではないかと思いました」
三人の登場人物は、ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』のように、時間も場所も定かではない異空間に彷徨い出す。
「『ダウン・バイ・ロー』で、脱獄した男たちが、林を駆け抜けていくところとか、僕はもう、あそこからどんどんグリフィスに戻っていくのではないかと思いましたね。やはり純化された抽象的な空間に遡行してゆくのが、映画の根源的な欲求だと思います。だから、グリフィスやラングがすごいわけで。周囲の状況や具体的な時間から切り離された抽象性、画面の実存的な光の力で、観る人の心を打つ。僕が映画館に通って、その抽象性に心を揺さぶられてきたところがあるわけで、自分が映画を作れば、それがどうしても出てしまう、というより出そうとしますよね」
しかし、異空間の外にはアメリカの現実がある。三人が乗る車を止めた警官による尋問は、彼らを単純な図式に押し込めようとする。
「映画の構図を具体的に話すと、読んだ人がそういうふうに理解するものだと思ってしまうので、背景に触れるだけでとどめておきたい気持ちはありますが、ただ最初、三人の前にある現実があって、モニュメント・バレーという浮世離れした空間に旅へ出掛け、再び現実に戻ってくるという円環は考えていました。国籍とか宗教とか考え方も違う三人が、そうした違いと無関係なところで、親近感を感じるようになる。しかし現実に立ち戻った時、その関係を維持できるのか、ということで一挙に今のアメリカと対峙しなければならなくなる。その落差を見せたい、というのはありました」
『ビッグ・リバー』を作るということは、人種や文化の異なるスタッフとキャストが空間を共有し、ひとつの世界を構築していくことを意味する。そのプロセスに、アメリカを見ることもできるだろう。 |