舩橋淳監督の新作『谷中暮色』を観ながら、筆者は、しばらく前に読んだ加藤秀俊の『メディアの発生――聖と俗をむすぶもの』のことを思い出していた。一般的にメディアといえば、テレビや新聞のようなマスメディアを連想するが、本来の意味は違う。「その原型になっているのは聖俗をつなぐ「霊媒」のことでもあったのだ。そのような意味での「メディア」は現代の文明世界でもけっして消滅したわけではない」
本書では、古典や歴史、伝統芸能などを通してメディアの意味が再検証され、日本人の精神世界が掘り下げられていく。『谷中暮色』の世界と本書の記述には接点があるように思える。たとえば、以下のような記述だ。
「どうやら「メディア」というものは人間が意識的に「発明」したり、だれかの計画によって「誕生」したりしたものではなく、人類が「カミ・ホトケ」の原初形態のごときなにものかに気づいたときにおのずから「発生」したものなのだろう、と確信するようになった」
「「カミ」はこの世界を形成しているあらゆる異質な事物の交流を可能にし、促進してくださるのだ。「交流」だけではない。それは「結合」をも意味する。やまとことばでいえば、おそらく「むすび」ということばがそれに相当するのだろう。「カミ」の基本的役割はさまざまな事物・現象についての「むすぶ」ことなのである」
『谷中暮色』には、本書のテーマに通じる根源的なメディアが描き出される。その代表が、焼失した谷中の五重塔だ。この映画に登場する谷中の伝統工芸職人にとって、記憶に深く刻み込まれた五重塔は、ノスタルジーの対象ではなく、メディアとして彼らの精神の支えとなっている。そして、五重塔を媒介としてむすばれた彼らが継承する伝統、すなわち墓標の仏名を記す書や山車人形や江戸消防の纏や宮大工の匠の技などもまた、いまに生きるメディアだといえる。
伝統を継承することは、過去と現在をむすぶことを意味するが、この映画では、それとは異なるかたちでも過去と現在がむすばれる。映画に幸田露伴の『五重塔』の物語を埋め込むことによって、露伴が作品を執筆した時代や物語の背景となる時代と現在がむすばれるのだ。『五重塔』の主人公・十兵衛が、厳しい軋轢を乗り越え、犠牲を払って築き上げる五重塔とは何なのか。それは単に優れた建造物ではない。おそらく彼は、「カミ・ホトケの原初形態のごときなにものかに気づき」、聖と俗、人と人をむすぶメディアを作り上げるのだ。
しかもこの映画では、露伴の『五重塔』が江戸時代の物語として描かれるだけではなく、現在における青年・久喜と車椅子の老人の関係にも反映されているように思える。人物の立場はまったく違うが、十兵衛と朗円上人の絆が、久喜と老人のそれに重なっていくように見えるのだ。久喜はかつての仲間との間に軋轢が生じることを覚悟で、自分の道を歩みだし、不可視のものである五重塔を見上げる老人と視点を共有していく。そして、ふたりが貴重なフィルムでむすばれるとき、彼らの前に炎上する五重塔が出現する。 |