『やさしくキスをして』は、『マイ・ネーム・イズ・ジョー』や『SWEET SIXTEEN』と同じように、ローチと脚本のポール・ラヴァティがコンビを組み、グラスゴーを舞台にした作品だが、主人公たちの設定やドラマのトーンなど、その内容は前の二作品と大きく異なる。
『マイ・ネーム・イズ・ジョー』や『SWEET SIXTEEN』の主人公たちの前には、貧困、失業、ドラッグ、地域の荒廃といった避けられない現実があった。だから彼らは、家族やコミュニティを守るために難しい選択を迫られ、金に縛られていくことになる。
『やさしくキスをして』の主人公であるロシーンとカシムの個々の人生には、そこまで深刻で切迫した現実はない(あるいは、少なくともそう見える)。もし偶然の出会いがなければ、彼らはこんな人生を歩んでいたはずだ。
アイルランド人で、カトリックの高校で音楽を教えるロシーンは、夫と別居中の寂しさや彼女が課題に選んだ伝承曲に対する学校側の苦言などはあるものの、間もなく非常勤から正教員となり、仕事と音楽に打ち込んでいたことだろう。
一方、パキスタン移民二世でDJのカシムは、家族やコミュニティの仕来りに息苦しさを感じたり、外部の偏見に晒されながらも、親が決めた縁談を受け入れ、自分のクラブの経営に乗り出していたことだろう。
この映画では、そんなふたりが偶然に出会うことになるが、それはある意味で必然ともいえる。彼らの出会いのきっかけを作るのは、自立心旺盛なカシムの妹タハラだ。映画の冒頭で彼女はクラスメートに向かって、自分はグラスゴーに生まれ、イスラム教徒の家庭で育ったパキスタン人で、カトリックの学校に通い、(プロテスタントが支持する)レンジャーズを応援すると宣言する。
その結果、彼女は白人の男子生徒たちに追いまわされることになり、ロシーンとカシムが出会う。そして、ふたりが親密になると、双方のコミュニティからの反発が次々と表面化してくる。
ジャーナリストを目指すタハラのマニフェストは明らかに挑発であり、ロシーンとカシムの間に生まれるのは自然な恋愛関係だが、彼らを取り巻くコミュニティにとっては、どちらも爆弾のようなものであり、この出来事によって周囲の態度ががらりと変わる。つまり、9・11によって突然、宗教や民族をめぐってヒステリックな線引きが始まったように、規範が強調され、彼らを縛ろうとするのだ。
さらにこのドラマには、歴史をどう受け止め、乗り越えるのかという問いがある。カシムの父親はかつて、インド・パキスタンの分離独立にともなう紛争に巻き込まれ、双子の兄弟を亡くした。ロシーンの授業には、リンチにあって木に吊るされた黒人のスライドを見ながら、ビリー・ホリデイの<奇妙な果実>を聴き、歌の意味を学ぶ場面がある。
カシムの父親やカトリックの教区司祭は、そうしたエピソードに象徴されるような差別の歴史ゆえに、それぞれの規範に執着する。ロシーンとカシムは、双方の規範の圧力に振り回されるが、激しい口論や破局を繰り返しながらも愛を貫き、歴史を乗り越えようとするのだ。 |