リーは父親を探すために州境まで行きたいが、車も金もない。そこで、同世代の親友ゲイルを訪ね、州境まで連れていってほしいと頼む。ゲイルは夫にお伺いをたてるが、すげなく断られる。理由もわからない。そのとき、リーとゲイルのあいだにこんな会話がある。「情けないわね、何でも夫の言いなりなんて」。「結婚すればわかる」。「あんたも前はもっと強い女だったのに」
ここでホモソーシャルな連帯やミソジニーがどのようなものであるのかを確認しておくのも無駄ではないだろう。先述した『夢なき者たちの絆』では、クランにおける男と女の立場が以下のように表現されている。
「一族の男は誇り高く強情で、ほとんどが先天的に荒っぽく、酒を飲んではたがいに撃ち合ったり女房をぶん殴ったり、いとこや姪をはらませたりする。(中略)それから、女たちがいる。そう、女たちが。悲しげな目をした可憐な生き物だが、十二の年には純真無垢な愛らしい花、十七になると荒れ狂う捨て鉢な母親、三十を迎えるころには頬のこけたあきらめきった祖母」
そんな現実を踏まえるなら、17歳のリーが、クランの掟を破ったと思われる父親を探すことがいかに難しいかよくわかるはずだ。実際、タブーに触れようとする彼女には、手荒な警告が繰り返される。追いつめられた彼女は、弟と妹に狩猟の基本を伝授し、自ら軍隊に志願することで金を工面しようとする。それも叶わないとなると、命懸けでクランの長老に食らいつく。
そして、そんな彼女の姿に、これまでそれぞれに男と掟に従っていた女たちが密かに心を動かされていく。このドラマには、表には出ることのない(というよりも、当人たちでさえそれと意識することのないような)女同士のホモソーシャルな連帯関係が描き出されている。リーが経験する通過儀礼を忘れがたいものにしているのは、そんなヒルビリーのもうひとつのスピリットだといえる。
さらに、音楽にも注目しなければならない。ヒルビリーと音楽は切っても切れない深い関係にある。たとえば、作家・ブルーグラス奏者の東理夫はその著書『アメリカは歌う。』のなかでこのように書いている。
「アパラチアに住む人びと、あるいはアパラチアに血族を持つ人びとは、ヒルビリーと呼ばれて蔑まれてきた。カントリー・ミュージックは長い間、ヒルビリー・ミュージックだった。無学で差別主義者で、すぐに暴力沙汰を起こす人間とみなされ、レッドネック(屋外労働者)、クラッカーズ(貧乏白人)、ホワイトトラッシュ(白人の屑)などとも呼ばれてきた」
この映画の冒頭でマリデス・シスコが歌っている<Missouri Waltz>は、こんな詞からはじまる。「この歌を聞いたのはミズーリで、幼かった頃、母のひざに抱かれて、老人は口ずさみ、バンジョーは鳴り響く、優しく低く」。そして、ラストでは、失われかけた絆を取り戻したリーと伯父のティアドロップ、そして彼らのクランのなかで次の世代へとバンジョーが引き継がれる。そのバンジョーは、いま書いたもうひとつのスピリットを象徴しているように見える。
ちなみに、グラニック監督はプレスのインタビューで、バンジョーについてこのように語っている。
「例えば『脱出』(72/ジョン・ブアマン監督)から35年以上経った今でも、バンジョーは(偏見を助長するような)含みのあるシンボルであることに変わりはない。でも南ミズーリでの私たちの旅を通して、“バンジョーたち”はもっと叙情的で魅力的な存在であり続けたわ。この映画では最終的にそのバンジョーの弾き手のひとりが、希望と忍耐力で自分の道を切り開いていく。私にはそのことが、固定観念に対する新しいイメージの始まりになるのではないかと思ったの」 |