ウィンターズ・ボーン
Winter's Bone  Winter's Bone
(2010) on IMDb


2010年/アメリカ/カラー/100分/アメリカンヴィスタ
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(初出:月刊「宝島」2011年11月号、加筆)

 

 

ホモソーシャルな連帯とミソジニー、
そしてもうひとつのスピリット

 

 アメリカのなかでアパラチアやミズーリ州オザーク地方に暮らす人々は、“ヒルビリー”と呼ばれ蔑まれてきた。注目の新鋭女性監督デブラ・グラニックがミズーリ州でオールロケを行い、現地住民も含むキャストで撮り上げたこの『ウィンターズ・ボーン』には、彼らの独自の世界が実にリアルに描き出されている。

 心を病んだ母親に代わって幼い弟と妹を引き受け、一家の大黒柱になることを余儀なくされた17歳の娘リーに、さらなる難題がふりかかる。とうの昔に家を出た麻薬密売人の父親が逮捕されたあげく、土地と家を保釈金の担保にして行方をくらましてしまったのだ。彼女は家族を守るためになんとか父親を探し出そうとするが.....。

 この映画の世界に入り込むためには、ヒルビリーの人々のことをいくらか頭に入れておくべきだろう。

 たとえば、マイクル・C・ホワイトのミステリー小説『夢なき者たちの絆』はその参考になる。産婦人科医にしてパートタイムの検視官でもあるスチュアート・ジョーダンを主人公にした物語は、ヒルビリーが鍵を握る。ジョーダンはニューイングランドからノースカロライナにやって来たよそ者で、最初はヒルビリーのことをよく知らない。

初めてこの地へやってきたころ、わたしはアパラチアの人々に関する自分の知識が『じゃじゃ馬億万長者』や『リル・アブナー』の範囲にとどまっていると認めるのが気まずかった。わたしにとって、彼らはひとり残らず山の人なのだ――南部山地の住民も僻地の住人も未開地の人間も

 しかし、そこに長く暮らすうちに山の民に違いがあることを理解するようになる。その違いは、外部の一般社会にどこまで同化しているかで決まる。ジョーダンは、そうした分類の最後にくる人々のことをこのように説明している。

根っからの、正真正銘の山の民だ。山男。彼らは伝統や独立心を売り払わなかった、放棄しなかったというので尊敬され崇められる一方で、あざ笑われたり蔑まれたりもする。おそらくこれは、彼らの存在が町の住民に自分たちは赤い粘土にまみれながらさんざん苦労してきたのだという過去を思い出させるからだろう。わたしはそのことを、発言する人物や口調から学んできた。山の連中とは賛辞でもあれば挑発でもあるのだ。この最後のグループは結束の強い大人数の弧絶した一族から成り立っている

 この『ウィンターズ・ボーン』に登場するミルトン一族は、まさにその「正真正銘の山の民」といえる。彼らは一般社会の規範に縛られるのではなくクラン(血族)に従い、峻険な山間部で伝統や独立心を頑なに守りつづける。もしその地域のなかに彼らの掟を破るような者がいれば、ただではすまないだろう。

 ヒロインのリーにはそんなクラン中心の集団意識が壁となる。もっと具体的にいえば、壁になるのは、男同士のホモソーシャルな連帯関係、そしてそれと表裏一体になっているミソジニー(女性嫌悪)の伝統だ。グラニック監督がそれを意識していることは、前半部のさり気ないエピソードから察せられる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   デブラ・グラニック
Debra Granik
脚本 アン・ロッセリーニ
Anne Rosellini
原作 ダニエル・ウッドレル
Daniel Woodrell
撮影 マイケル・マクドノー
Michael McDonough
編集 アフォンソ・ゴンサルウェス
Affonso Goncalves
音楽 ディコン・ハインクリフェ
Dickon Hinchliffe
 
◆キャスト◆
 
リー   ジェニファー・ローレンス
Jennifer Lawrence
ティアドロップ ジョン・ホークス
John Hawkes
メラブ デイル・ディッキー
Dale Dickey
バスキン保安官 ギャレット・ディラハント
Garret Dillahunt
エイプリル シェリル・リー
Sheryl Lee
ゲイル ローレン・スイーツァー
Lauren Sweetser
リトル・アーサー ケヴィン・ブレズナハン
Kevin Breznahan
-
(配給:ブロードメディア・スタジオ)
 
 
 

 リーは父親を探すために州境まで行きたいが、車も金もない。そこで、同世代の親友ゲイルを訪ね、州境まで連れていってほしいと頼む。ゲイルは夫にお伺いをたてるが、すげなく断られる。理由もわからない。そのとき、リーとゲイルのあいだにこんな会話がある。「情けないわね、何でも夫の言いなりなんて」。「結婚すればわかる」。「あんたも前はもっと強い女だったのに」

 ここでホモソーシャルな連帯やミソジニーがどのようなものであるのかを確認しておくのも無駄ではないだろう。先述した『夢なき者たちの絆』では、クランにおける男と女の立場が以下のように表現されている。

一族の男は誇り高く強情で、ほとんどが先天的に荒っぽく、酒を飲んではたがいに撃ち合ったり女房をぶん殴ったり、いとこや姪をはらませたりする。(中略)それから、女たちがいる。そう、女たちが。悲しげな目をした可憐な生き物だが、十二の年には純真無垢な愛らしい花、十七になると荒れ狂う捨て鉢な母親、三十を迎えるころには頬のこけたあきらめきった祖母

 そんな現実を踏まえるなら、17歳のリーが、クランの掟を破ったと思われる父親を探すことがいかに難しいかよくわかるはずだ。実際、タブーに触れようとする彼女には、手荒な警告が繰り返される。追いつめられた彼女は、弟と妹に狩猟の基本を伝授し、自ら軍隊に志願することで金を工面しようとする。それも叶わないとなると、命懸けでクランの長老に食らいつく。

 そして、そんな彼女の姿に、これまでそれぞれに男と掟に従っていた女たちが密かに心を動かされていく。このドラマには、表には出ることのない(というよりも、当人たちでさえそれと意識することのないような)女同士のホモソーシャルな連帯関係が描き出されている。リーが経験する通過儀礼を忘れがたいものにしているのは、そんなヒルビリーのもうひとつのスピリットだといえる。

 さらに、音楽にも注目しなければならない。ヒルビリーと音楽は切っても切れない深い関係にある。たとえば、作家・ブルーグラス奏者の東理夫はその著書『アメリカは歌う。』のなかでこのように書いている。

アパラチアに住む人びと、あるいはアパラチアに血族を持つ人びとは、ヒルビリーと呼ばれて蔑まれてきた。カントリー・ミュージックは長い間、ヒルビリー・ミュージックだった。無学で差別主義者で、すぐに暴力沙汰を起こす人間とみなされ、レッドネック(屋外労働者)、クラッカーズ(貧乏白人)、ホワイトトラッシュ(白人の屑)などとも呼ばれてきた

 この映画の冒頭でマリデス・シスコが歌っている<Missouri Waltz>は、こんな詞からはじまる。「この歌を聞いたのはミズーリで、幼かった頃、母のひざに抱かれて、老人は口ずさみ、バンジョーは鳴り響く、優しく低く」。そして、ラストでは、失われかけた絆を取り戻したリーと伯父のティアドロップ、そして彼らのクランのなかで次の世代へとバンジョーが引き継がれる。そのバンジョーは、いま書いたもうひとつのスピリットを象徴しているように見える。

 ちなみに、グラニック監督はプレスのインタビューで、バンジョーについてこのように語っている。

例えば『脱出』(72/ジョン・ブアマン監督)から35年以上経った今でも、バンジョーは(偏見を助長するような)含みのあるシンボルであることに変わりはない。でも南ミズーリでの私たちの旅を通して、“バンジョーたち”はもっと叙情的で魅力的な存在であり続けたわ。この映画では最終的にそのバンジョーの弾き手のひとりが、希望と忍耐力で自分の道を切り開いていく。私にはそのことが、固定観念に対する新しいイメージの始まりになるのではないかと思ったの

《参照/引用文献》
『夢なき者たちの絆』マイクル・C・ホワイト●
汀一弘訳(扶桑社ミステリー、2002年)
『アメリカは歌う。歌に秘められた、アメリカの謎』東理夫●
(作品社、2010年)

(upload:2012/01/23)
 
 
《関連リンク》
『ウィンターズ・ボーン』公式サイト ■
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