牛の鈴音
Old Partner  Wonangsori
(2008) on IMDb


2008年/韓国/カラー/78分/HD→35mm/ヴィスタ/ドルビーステレオ
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(初出:「CDジャーナル」2010年1月号、EAST×WEST08、若干の加筆)

 

 

人間と自然の本源的な関係

 

 老いた農夫のチェ爺さんと、30年間も彼とともに働いてきた一頭の牛。その日々の営みを静かに見つめた『牛の鈴音』は、韓国本国で社会現象を引き起こすほどの大ヒットを記録したドキュメンタリーだ。

 これがデビュー作となるイ・チュンニョル監督は、97年のアジア通貨危機で、社会の担い手としての父親世代が、経済的・精神的に打撃を受けたことをきっかけに、父親の映画を作りたいと思うようになった。そして、監督自身の父親が牛と働く農夫だったことから、そのイメージに見合う対象としてチェ爺さんと彼の牛が見出されることになった。

 しかしこの映画には、作り手の意図を超えた世界が映し出され、人間と自然の根源的な関係を垣間見ることができる。その関係は、“狩猟”から始まった。人類学者のカールトン・スティーヴンズ・クーンが書いた『世界の狩猟民』のまえがきには、以下のような記述がある。

一万年前、人は皆狩猟民でした。読者のみなさんの先祖も含まれます。一万年はおよそ400世代にわたる期間ですが、この短さでは目立った遺伝的変化は起こりません。人間行動が他の動物行動と同じく、最終的に遺伝された能力(学ぶ能力も含む)に依存する限り、わたしたちの持って生まれた傾向は大して変化するはずはありません。先祖とわたしたちは同じ人間なのです

 たとえば、監督としてのショーン・ペンは、『インディアン・ランナー』から『プレッジ』や『イントゥ・ザ・ワイルド』へと、一貫して狩猟にこだわりつづけているが、なぜそれが重要なのか。もう一冊の本『狩猟と供犠の文化誌』に、そのヒントが見出せる。本書では、「狩猟と供犠」という問題設定における二重の目的が以下のように説明されている。

その一つは、「文明世界」が捨てて省みることのない人間と自然の本源的な関係を、ヒトの基本的な生活活動であった狩猟のいとなみや、祭祀の場で人間と神と自然の三項を象徴的に関係づけることでそれぞれの意味と役割を設定する供犠儀礼をとおして再検討することであり、もう一つは、そこでの成果を踏まえたうえで、ともすると観念的で、さらには全体主義的な方向にさえ向かいかねない環境保護主義の思想に批判的にかかわっていくことである


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/編集   イ・チュンニョル
Lee Chung-ryoul
撮影 チ・ジェウ
Ji Jae-woo
音楽 ホ・フン、ミン・ソユン
Heo Hoon, Min So-yun
 
◆キャスト◆
 
    チェ・ウォンギュン
Choi Won-kyun
  イ・サムスン
Lee Sam-soon
-
(配給:スターサンズ、シグロ)
 

 『牛の鈴音』のチェ爺さんはもちろん狩猟民ではなく農民であり、その間には大きな隔たりがあることは承知しているが、この映画を観ると筆者の意識は、父親や牛と働く農夫ではなく、人間と自然の深い繋がりに向かう。

 興味深いのは、チェ爺さんと牛、そしてチェ爺さんと長年連れ添ってきたお婆さんのコントラストだ。お婆さんは毎日、不平不満が尽きない。彼女は言葉を介することで成り立つ世界を生きている。チェ爺さんと牛は、自然の摂理によって深く結び付けられている。チェ爺さんは決して耕作機械を使おうとはしない。牛が食べる草のことを考え、農薬も使わない。牛の寿命は15年ほどなのに、この牛は40年も生きている。

 チェ爺さんの日々の営みは、もはや家族を養うための労働とは違うものになっている。それは、彼の子供たちがすでに巣立ち、それぞれに家族を持っているということではない。彼は、農耕を営んでいるというよりは、牛とともに結界の向こう側で生きているように見えるのだ。私たちは環境保護を制度化する以前に、そんな結界を自分の肌で感じ、人間と自然の本源的な関係を確認しなければならない。

《参照/引用文献》
『世界の狩猟民 その豊穣な生活文化』カールトン・スティーヴンズ・クーン●
平野温美・鳴島史之訳(法政大学出版局、2008年)
『狩猟と供犠の文化誌』中村生雄・三浦佑之・赤坂憲雄・編●
(森話社、2007年)

(upload:2010/02/17)
 
 
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