■■イルカ漁の残酷さだけを前面に出し単純な答えを導き出す■■
和歌山県太地町のイルカ漁を題材にしたドキュメンタリー『ザ・コーヴ』には、イルカやクジラをめぐる様々な問題が取り上げられている。そのなかでも特に重要だと思えるのが、食用のイルカ肉に含まれる水銀の危険性とイルカを高値で取引する水族館産業のネットワークだ。
しかし、どちらの問題も十分な時間を割いて広い視野から掘り下げているとはいえない。前者については、高い数値を一例示しただけで、水俣病に関する映像と結びつけ、同じ悲劇が繰り返されると主張する。後者については、ネットワークの実態ではなく、イルカの供給源としての太地町に注目するだけにとどまっている。
ではこの映画は、何を描くことに大半の時間を費やしているのか。それを明らかにする前に、イルカ漁を取り巻く状況を確認しておく必要がある。環境保護運動が盛り上がりをみせるなかで、イルカ漁の関係者は苦しい立場に追い込まれ、人目をはばかるようになった。
秋道智彌の『クジラは誰のものか』には以下のような記述がある。「もしも捕鯨の現場を映像で示したとすると、そこにはもがき苦しむイルカやクジラの姿と血の海が登場することになる。映像は正直だが、その背景までもちゃんと説明してくれないことがある」。だから関係者が防衛策を講じるのもわからないではない。
この映画の作り手は、そんな状況を最大限に利用する。イルカ漁の伝統を守る地域の入り江に恐るべき秘密が隠されているという前提のもとに、その道のスペシャリストたちが結集して厳重な監視の目をかいくぐり、真実を暴き出すというスリリングなドラマを作り上げていく。そして、すべての問題が入り江の秘密に集約される。現代ではほとんどの狩猟(あるいは屠殺)行為が隠蔽されているため、イルカの狩猟の光景には衝撃がある。彼らはその残酷さだけを前面に押し出し、単純な答えを導き出す。
この強引なアプローチがそれなりにかたちになってしまうのはなぜか。それはこの映画が、リック・オバリーの物語になっているからだ。彼は60年代に人気TV番組「わんぱくフリッパー」で調教師兼俳優として活躍した。だが、自ら調教していたイルカの深刻なストレスを理解できず、死に追いやってしまったことを悔やみ、イルカ解放運動家に転身し、最前線で活動するようになった。イルカに対するそんな愛情と贖罪の念が、彼の姿勢や行動を正当化すると同時に、題材に対する視野を狭めていく。
■■自然との多様な関係性を切り捨てれば社会は脆弱になる■■
この映画は構成を誤らなければ、地域の伝統とグローバルな問題との関係を問う優れたドキュメンタリーになっていたかもしれない。水銀の問題についてはすでに、グリーンランドのイヌイット社会における深刻な健康被害が報告されている。海洋汚染は当然、日本の伝統にも打撃をもたらしかねない。だから先頭に立って問題に対処する必要がある。一方、もし仮に現代のイルカ漁が、地域ではなくグローバルな水族館産業=グローバリゼーションに支えられているのだとしたら、それは果たして伝統といえるのか。 |