ザ・コーヴ
The Cove  Za kovu
(2009) on IMDb


2009年/アメリカ/カラー/91分/アメリカンヴィスタ/ステレオ
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(初出:「キネマ旬報」2010年7月下旬号、若干の加筆)

 

 

構成さえ誤らなければ優れたドキュメンタリーに

 

■■イルカ漁の残酷さだけを前面に出し単純な答えを導き出す■■

 和歌山県太地町のイルカ漁を題材にしたドキュメンタリー『ザ・コーヴ』には、イルカやクジラをめぐる様々な問題が取り上げられている。そのなかでも特に重要だと思えるのが、食用のイルカ肉に含まれる水銀の危険性とイルカを高値で取引する水族館産業のネットワークだ。

 しかし、どちらの問題も十分な時間を割いて広い視野から掘り下げているとはいえない。前者については、高い数値を一例示しただけで、水俣病に関する映像と結びつけ、同じ悲劇が繰り返されると主張する。後者については、ネットワークの実態ではなく、イルカの供給源としての太地町に注目するだけにとどまっている。

 ではこの映画は、何を描くことに大半の時間を費やしているのか。それを明らかにする前に、イルカ漁を取り巻く状況を確認しておく必要がある。環境保護運動が盛り上がりをみせるなかで、イルカ漁の関係者は苦しい立場に追い込まれ、人目をはばかるようになった。

 秋道智彌の『クジラは誰のものか』には以下のような記述がある。「もしも捕鯨の現場を映像で示したとすると、そこにはもがき苦しむイルカやクジラの姿と血の海が登場することになる。映像は正直だが、その背景までもちゃんと説明してくれないことがある」。だから関係者が防衛策を講じるのもわからないではない。

 この映画の作り手は、そんな状況を最大限に利用する。イルカ漁の伝統を守る地域の入り江に恐るべき秘密が隠されているという前提のもとに、その道のスペシャリストたちが結集して厳重な監視の目をかいくぐり、真実を暴き出すというスリリングなドラマを作り上げていく。そして、すべての問題が入り江の秘密に集約される。現代ではほとんどの狩猟(あるいは屠殺)行為が隠蔽されているため、イルカの狩猟の光景には衝撃がある。彼らはその残酷さだけを前面に押し出し、単純な答えを導き出す。

 この強引なアプローチがそれなりにかたちになってしまうのはなぜか。それはこの映画が、リック・オバリーの物語になっているからだ。彼は60年代に人気TV番組「わんぱくフリッパー」で調教師兼俳優として活躍した。だが、自ら調教していたイルカの深刻なストレスを理解できず、死に追いやってしまったことを悔やみ、イルカ解放運動家に転身し、最前線で活動するようになった。イルカに対するそんな愛情と贖罪の念が、彼の姿勢や行動を正当化すると同時に、題材に対する視野を狭めていく。

■■自然との多様な関係性を切り捨てれば社会は脆弱になる■■

 この映画は構成を誤らなければ、地域の伝統とグローバルな問題との関係を問う優れたドキュメンタリーになっていたかもしれない。水銀の問題についてはすでに、グリーンランドのイヌイット社会における深刻な健康被害が報告されている。海洋汚染は当然、日本の伝統にも打撃をもたらしかねない。だから先頭に立って問題に対処する必要がある。一方、もし仮に現代のイルカ漁が、地域ではなくグローバルな水族館産業=グローバリゼーションに支えられているのだとしたら、それは果たして伝統といえるのか。


◆スタッフ◆
 
監督   ルイ・シホヨス
Louie Psihoyos
脚本 マーク・モンロー
Mark Monroe
撮影 ブルック・エイトキン
Brook Aitken
編集 ジェフリー・リッチマン
Geoffrey Richman
音楽 J・ラルフ
J. Ralph
 
◆キャスト◆
 
    リチャード(リック)・オバリー
Richard O’Barry
  ルイ・シホヨス
Louie Psihoyos
  サイモン・ハッチンズ
Simon Hutchins
  チャールズ・ハンブルトン
Charles Hambleton
  マンディ=レイ・クルークシャンク
Mandy-Rae Cruikshank
  カーク・クラック
Kirk Krack
  ジョゼフ(ジョー)・チズルム
Joseph(Joe) Chisholm
  C・スコット・ベイカー
C. Scott Baker, Ph.D
  ブルック・エイトキン
Brook Aitken
  ハーディー・ジョーンズ
Hardy Jones
  マイケル・イリフ
Michael Iliff
  イアン・キャンベル
Ian Campbell
  ポール・ワトソン
Paul Watson
  ダグ・デマスター
Doug Denaster
  デヴィッド・ラストヴィッチ
David Rastovich
  ロジャー・ペイン
Roger Payne
  ダン・グッドマン
Dan Goodman
  ジョン・ポッター
John Potter
  ジョン・フラー
John Fuller
  アサートン・マーティン
Atherton Martin
-
(配給:アンプラグド)
 

 この映画は、そうした問題について各自が考え、答えを出すための手がかりをできる限り提示しようとするのではなく、狩猟と血の海の映像を踏み絵のように差し出そうとする。それは非常に危険なことだ。

 そこで筆者が思い出すのは、三年前に出版された『狩猟と供犠の文化誌』のことだ。本書の序文で編者の中村生雄は、環境保護思想が真っ先に標的とするような「殺し」と「血」のイメージにまみれた狩猟と供犠にあえて目を向ける意図を以下のように説明している。

その一つは、「文明世界」が捨てて省みることのない人間と自然との本源的な関係を、ヒトの基本的な生産活動であった狩猟のいとなみや、祭祀の場で人間と神と自然の三項を象徴的に関係づけることでそれぞれの意味と役割を設定する供犠儀礼をとおして再検討することであり、もう一つは、そこでの成果を踏まえたうえで、ともすると観念的で、さらには全体主義的な方向にさえ向かいかねない環境保護主義の思想に批判的にかかわっていくことである

 そんな視点はイルカ漁においても有効だろう。二年前に出版された川島秀一の『追込漁』には、かつてイルカ漁に従事した人々の語りを軸にして、人とイルカの密接な関係やイルカの供養が描き出されている。そのなかに以下のような記述がある。

非日常的な生物が海浜に到来すると、すぐにペット化する現代からは想像しにくいことだが、日常的に人間と生物との直接的なつながりがあった時代には、それゆえにこそ野太い信仰も文化も生まれたものと思われる

 但し、筆者が指摘したいのは日本独自の文化ということではない。たとえば、作家のコーマック・マッカーシーや監督のショーン・ペンが、狩猟と野生と暴力と殺しを通して人間を見つめる作品群にも、共通する視点や問題意識を見出すことができる。

 筆者は、伝統や文化が時代とともに変化していくことを否定しない。だが、状況を単純化して自然との多様な関係性を切り捨ててしまえば、生の営みや社会の基盤は脆弱になる。その歪みがすでに様々なかたちで露呈していると思うのは筆者だけではないだろう。

《参照/引用文献》
『クジラは誰のものか』 秋道智彌●
(ちくま新書、2009年)
『狩猟と供犠の文化誌』 中村生雄・三浦佑之・赤坂憲雄・編●
(森話社、2007年)
『追込漁』 川島秀一●
(法政大学出版局、2008年)

(upload:2010/08/20)
 
 
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