家族の不和を抱えつつ、小さな熱帯魚店を営む主人公・社本が、同業者で人の良さそうな村田と知り合ったことで、想像を絶する破滅的な世界に引きずり込まれていく。
園子温監督の『冷たい熱帯魚』は、『紀子の食卓』や『愛のむきだし』で突き詰められてきた家族の世界にひとつの区切りをつける作品といえる。
筆者が『紀子の食卓』公開時に園監督にインタビューしたとき、彼は“家族”についてこのように語っていた。
「日本では、伝統的な家族の在り方というものが、古くからあるように見せかけているけれども、本当はないと思うんですよ。それがあるのなら、いつから崩壊 したのか逆に問いただしたい。そんな曖昧さのなかで、幸せな家族の在り方があると信じ込み、家族を形成していくことの危うさを表現したかった」
「僕は、家族がちょっとしたことで殺し合うような最近のニュースを見ると、なんでそんなに簡単に家族関係が崩壊してしまうのかよくわかる。ありもしない伝統的な家族を作ろうとして、一生懸命やった末に壊れるのだと思いますね」
確かに、伝統的な家族というのは、いまではかなり怪しいものになっている。園監督の言葉で筆者が思い出すのは、ステファニー・クーンツが書いた『家族とい う神話―アメリカン・ファミリーの夢と現実』の第二章「ビーバーちゃん」と「オジーとハリエット」――一九五〇年 代のアメリカの家族のことだ。
本書が出版されたのは1992年だが、クーンツによれば、アメリカでリベラル派と保守派が家族政策について意見を戦わせるときには、50年代のホームドラマに描かれた家族が基準になっているという。
「リベラル派は、「ビーバーちゃん」タイプの家族は絶滅に向かって減少しつつあり、もはやこの流れをくい止めることは不可能だと証明しない限り、新しい家 族の定義や社会政策をうちだすことはできないと考えているようである。一方保守派は、共働き家族とひとり親家庭を優遇する政策によって危機にさらされなが ら、伝統的家族がいまだ健在であることを示すことができれば、多くの人々に比較的安定した結婚生活や男女の性別役割分業、家庭生活を連想させる一九五〇年 代のあの表面的平穏と繁栄を復活させるための政策を立法化できると信じている。つまり、どちらの側にしても、一九五〇年代の家族が今日存在していたなら ば、現代社会のジレンマはなかったという前提に立っているのである」 |