1987年にニュージャージーにある郊外の町で、4人のティーンが集団自殺する事件が起こり、さらに事件のニュースが流れるとそれを真似するティーンが現れ、世間が騒然となった。ドナ・ゲインズの『Teenage Wasteland』は、この事件をきっかけにその舞台となった町を取材し、レーガンの時代に若者たちが郊外でどのような状況に置かれているのかを探ったノンフィクションだ。
そのなかで著者は、60年代末か70年代であれば、郊外のティーンには、町を離れて自分を探すための夢の路上があったが、いまではそれが失われていると書いている。レーガン政権の下で社会は保守化し、“家族の価値”が喧伝され、郊外はより閉塞的になり、若者たちはどこにも出口を見出せなくなってしまったのだ。
リチャード・ケリー監督の『ドニー・ダーコ』でまず印象に残るのは、そんな80年代という時代へのこだわりだ。このドラマでは、80年代の閉塞感が独自の視点と感性でとらえられている。時代背景である88年10月は大統領選の最中であり、テレビにはブッシュとデュカキス両候補の討論会の模様が映しだされる。それは、レーガンの任期が終わりつつあるのを示唆するだけではなく、この映画の世界がまさしくレーガンの作ったアメリカであることを強調してもいる。
ドニーとウサギの関係は、80年代にたびたび話題となったサタニズムを連想させる。サタニズムの騒ぎのもとになっているのは、ほとんどが根も葉もない噂の類だが、88年にトミー・サリヴァンの事件が起きたときには、それがきっかけのひとつになってパニックに発展した。これは、トミー・サリヴァンという若者が、夢のなかに現れたサタンの指示に従って母親を殺害し、自殺したという事件だ。
80年代のサタニズムをめぐるパニックを検証したジェフリー・S・ヴィクターの『Satanic Panic』には、サタニズムに引き込まれるのは白人の中流階級で、頭もよく、画一的な郊外のコミュニティのなかで自己の無力さを感じるがゆえに、自分と世界をコントロールすることを求めるティーンだという指摘がある。この映画のドニーは、サタニズムに引き込まれるわけではないが、ウサギの存在を通して自分と世界をコントロールしようとするという意味では、明らかに共通するものがある。
また、自己啓発セミナーを主宰し、住人たちから教祖のように崇められるカニングハムは、80年代にメディアを席巻したテレビ伝道師たちを連想させる。そのテレビ伝道師は、金銭やセックスをめぐるスキャンダルで80年代後半に厳しい批判を浴びたが、この映画でも、ドニーがカニングハムの屋敷に放火したことがきっかけで、その内部から“児童ポルノの館”が発見され、彼は逮捕されることになる。
ドニーはウサギの出現によって、生きているのか、死んでいるのか、夢を見ているのか、予め決められた運命をたどっているのか、自殺願望に駆られているのか定かでない、混沌とした世界に引き込まれていく。そこで注目しなければならないのが、なぜ世界の終わりが88年でなければならないのかということだろう。監督のリチャード・ケリーは75年生まれで、88年にはまだ13歳であり、この年が当時から特別なものとして彼の記憶に深く刻み込まれていたとは考えにくい。 |