リチャード・ケリー監督の新作『運命のボタン』は、『ドニー・ダーコ』と同じようにサバービア(郊外住宅地)をテーマにしている。映画の時代背景は1976年。ノーマとアーサーのルイス夫妻は、一人息子のウォルターとヴァージニア州のサバービアに暮らしている。ある日、スチュワードと名乗る謎の男が現れ、先に届けられていた装置の説明を始める。「このボタンを押せば、あなたは100万ドルを受け取る。ただしこの世界のどこかで、あなたの知らない誰かが死ぬ」
ノーマは高校の教師で、これまで息子の学費には教員割引が適用されていたが、来学期から中止になる。アメリカ航空宇宙局(NASA)ラングレー研究所に勤務するアーサーの給与も決して高くはない。ノーマは迷った末に、現在の生活を維持するためにボタンを押す。
ケリー監督は、強欲な人間を主人公にしているわけではなく、このエピソードを通してサバービアの特徴を描き出そうとしている。ちなみに、ノーマとアーサーのモデルになっているのは、彼の両親だ。
では、それはどんな特徴なのか。筆者は『サバービアの憂鬱』で、「The Housebreaker of Shady Hill」というジョン・チーヴァーの短編を取り上げた。タイトルのシェイディ・ヒルは、チーヴァーの作品によく出てくる郊外の町のひとつだ。妻子とそこに暮らし、工場で働くジョニーは、工場の責任者から、欠勤の多い上司に首を言い渡すように命じられる。だが彼は優しい人柄の上司に同情し、自分が会社から身を引くことで上司の首をつなぐ。当然、彼は金に困る。コミュニティにはたくさんの友人がいるが、彼は、借金を頼んだりすれば友人を失うことになると考える。
ウィリアム・H・ホワイトの『組織のなかの人間』では、郊外居住者がその収入の最低線を下回ることになった場合について、以下のように記述されている。
「ただ単に、家庭から幾つかの贅沢品がとりあげられるかもしれないという脅威になるだけではない。それは彼らをひとつの生活様式からほっぽりだしかねないのだ。郊外住宅地はチャチなお上品振りを大目に見たりはしない。支出がひどく切りつめられれば、おそらくはかえりみられないような楽しみ事も、二義的な付属的なものではないのである。中産階級の端くれに位置している家庭にとっては、それらは社会的な必需品なのである」
ケリー監督が描くのは、サバービアのある家族の問題ではない。しかもここで、G・スコット・トーマスの『The United States of Suburbia』を思い出してみれば、その問題が広がっていることがわかる。かつて民主党と共和党はそれぞれ都市と郊外を基盤として対峙していた。ところが、90年代に入ってこの構図は完全に崩壊した。大統領選で、郊外の住人が実権を握る州が都市のそれを完全に上回り、民主党も共和党も郊外に支持基盤を求め、アメリカ社会の未来は郊外によって決定されることになったからだ。
たとえば、バラク・オバマ大統領が最大の公約である医療改革を実現するために、なぜあれほど苦労し、大きな代償を払わなければならないのか。そんな現実とこの映画は決して無縁ではない。 |