アレックス・デ・ラ・イグレシアの新作『どつかれてアンダルシア(仮)』は、わかりやすくいえばスペイン版『フォレスト・ガンプ』である。この映画では、”ニノ&ブルーノ”という無名のお笑いコンビが、20年に渡って対立と和解を繰り返しながら、スターとして頂点を極めるまでの軌跡が綴られていく。
そのドラマには、昔のテレビCMや”超能力ブーム”を巻き起こしたユリ・ゲラーの映像などが盛り込まれるばかりか、 ふたりの主人公が、81年のクーデターや92年のバルセロナ五輪という歴史的な出来事の実写映像とも絡み合い、彼らの軌跡からはスペイン現代史が浮かび上がってくることになるのだ。
しかしイグレシアは、ゼメキスのように安易に歴史に寄りかかり、どこかで保守主義と帳尻をあわせているような甘い物語を作りはしない。ニノとブルーノは、政治や社会のことなど何もわかってないが、それは彼らが聖なる愚者だからではない。いつも相方に対するコンプレックス、嫉妬、憎しみで頭が一杯で、相方を蹴落とすことしか考えてないからだ。
しかも彼らは、お笑いのスターにはなるものの、
ヴェトナム戦争や卓球外交、反戦運動に相当する歴史の最前線を突っ走るわけでもない。凶暴性を発揮し、血塗れになることはあっても、どこまでもお笑いの芸人コンビである。それでも彼らの軌跡は、常に歴史と密接な関係を持ちつづける。
この新作は一見、これまでのイグレシア作品とは趣を異にしているように見える。彼の作品では常に、壮絶な対立やせめぎあいを生みだす明確な境界線が引かれていた。それは、美しいものと醜いミュータントの境界(『ハイル・ミュタンテ!』)であり、神と悪魔の境界(『ビースト』)であり、メキシコとアメリカの国境や女と男の境界(『ペルディータ』)などである。
彼はそこに独自の趣味で、SFやホラー、
コミック、セックスに暴力、カトリックに新興宗教にサンテリア教、怪しいテレビ番組にデス・メタルなどを自在に取り込み、主人公たちだけが共有できる狂信的な世界を作り上げる。その狂信的な世界が、現実を異化してみせるのだ。ところが新作におけるコンビの対立は、きわめて個人的で単純な不満の産物であって、そんな明確な境界など存在しないかのように見える。
ニノとブルーノは72年に田舎町で出会い、場末のストリップ劇場でスターへの切符をつかむ。きっかけは、慣れない舞台で、ニノが緊張のあまり硬直してしまったときに、ブルーノが客のリクエストに答えて相方をどついたことだった。やせのブルーノがでぶのニノをどつく。ただそれだけのことがこの映画の境界となり、歴史を取り込んでしまうのだ。
なぜなら、彼らが成功への足がかりをつかむ72年は、フランコ独裁時代の末期にあたり、大衆はこのどつくという不道徳な行為に快感をおぼえる。ブルーノが硬直したニノをどつく瞬間、大衆はブルーノ=フランコとなって、解放されるのだ。しかしただひとりで抑圧される大衆を引き受けることになったニノも黙ってはいない。 |