どつかれてアンダルシア(仮)
Muertos de Risa / Dying of Laughter


1999年/スペイン/カラー/100分/ビスタ/ドルビー・デジタル
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(初出:「STUDIO VOICE」2001年3月号、若干の加筆)

 

 

どつきあうふたつのスペイン

 

 アレックス・デ・ラ・イグレシアの新作『どつかれてアンダルシア(仮)』は、わかりやすくいえばスペイン版『フォレスト・ガンプ』である。この映画では、”ニノ&ブルーノ”という無名のお笑いコンビが、20年に渡って対立と和解を繰り返しながら、スターとして頂点を極めるまでの軌跡が綴られていく。

 そのドラマには、昔のテレビCMや”超能力ブーム”を巻き起こしたユリ・ゲラーの映像などが盛り込まれるばかりか、 ふたりの主人公が、81年のクーデターや92年のバルセロナ五輪という歴史的な出来事の実写映像とも絡み合い、彼らの軌跡からはスペイン現代史が浮かび上がってくることになるのだ。

 しかしイグレシアは、ゼメキスのように安易に歴史に寄りかかり、どこかで保守主義と帳尻をあわせているような甘い物語を作りはしない。ニノとブルーノは、政治や社会のことなど何もわかってないが、それは彼らが聖なる愚者だからではない。いつも相方に対するコンプレックス、嫉妬、憎しみで頭が一杯で、相方を蹴落とすことしか考えてないからだ。

 しかも彼らは、お笑いのスターにはなるものの、 ヴェトナム戦争や卓球外交、反戦運動に相当する歴史の最前線を突っ走るわけでもない。凶暴性を発揮し、血塗れになることはあっても、どこまでもお笑いの芸人コンビである。それでも彼らの軌跡は、常に歴史と密接な関係を持ちつづける。

 この新作は一見、これまでのイグレシア作品とは趣を異にしているように見える。彼の作品では常に、壮絶な対立やせめぎあいを生みだす明確な境界線が引かれていた。それは、美しいものと醜いミュータントの境界(『ハイル・ミュタンテ!』)であり、神と悪魔の境界(『ビースト』)であり、メキシコとアメリカの国境や女と男の境界(『ペルディータ』)などである。

 彼はそこに独自の趣味で、SFやホラー、 コミック、セックスに暴力、カトリックに新興宗教にサンテリア教、怪しいテレビ番組にデス・メタルなどを自在に取り込み、主人公たちだけが共有できる狂信的な世界を作り上げる。その狂信的な世界が、現実を異化してみせるのだ。ところが新作におけるコンビの対立は、きわめて個人的で単純な不満の産物であって、そんな明確な境界など存在しないかのように見える。

 ニノとブルーノは72年に田舎町で出会い、場末のストリップ劇場でスターへの切符をつかむ。きっかけは、慣れない舞台で、ニノが緊張のあまり硬直してしまったときに、ブルーノが客のリクエストに答えて相方をどついたことだった。やせのブルーノがでぶのニノをどつく。ただそれだけのことがこの映画の境界となり、歴史を取り込んでしまうのだ。

 なぜなら、彼らが成功への足がかりをつかむ72年は、フランコ独裁時代の末期にあたり、大衆はこのどつくという不道徳な行為に快感をおぼえる。ブルーノが硬直したニノをどつく瞬間、大衆はブルーノ=フランコとなって、解放されるのだ。しかしただひとりで抑圧される大衆を引き受けることになったニノも黙ってはいない。


◆スタッフ◆

監督/脚本
アレックス・デ・ラ・イグレシア
Alex de la Iglesia
脚本 ジョルジュ・グエリケチェヴァリア
Jorge Guerricacchevarria
撮影 フラヴィオ・マルティネス・ラヴィアーノ
Fravio Martinez Laviano
編集 テレサ・フォント
Teresa Font
音楽 ローク・バニョス
Roque Banos
製作総指揮 アンドレス・ヴィセンテ・ゴメス
Andre Vicente Gomez

◆キャスト◆

ニノ
サンティアゴ・セグラ
Santiago Segura
ブルーノ エル・グラン・ワイオミング
El Gran Wyoming
フリアン アレックス・アングロ
Alex Angulo
ラウラ カーラ・ヒガルデ
Carla Hidalgo
(配給:アーティストフィルム)
 


 イグレシアの映画では、過激で狂信的なドラマのなかで、 しばしば境界をめぐる立場の転倒が起こるが、新作も例外ではない。エイプリル・フールにニノは狂言を仕掛ける。ブルーノは、偽の治安警察に急襲され、死ぬほどの恐怖を味わい、自分がフランコではないことを思い知らされる。

 さらにこのコンビの登場は、もっと異なるレベルで独裁以後の社会を象徴している。一般に独裁政権は、血を流す革命によって倒され、民主化への道を歩むが、スペインでは、フランコが死ぬまで独裁を全うした。そして独裁者の死後に何も起こらなかったことが、革命となった。要するに”たなぼた”であり、それゆえに大衆はいつか何かが起こるのではないかという疑心暗鬼にとらわれ、実際に水面下ではふたつのスペインがせめぎあってもいた。

 ニノ&ブルーノのどつきもまた、たなぼたであり、彼らは疑心暗鬼にとらわれていく。ケッサクなのは、成功した彼らが、隣り合わせに同じ家を建て、表面上は平静を装いながら、お互いに日夜相方を監視し、精神的に追いつめ、蹴落とそうとするところだ。まさに表面上の平等は達成されたものの、権力闘争がつづいているのである。

 そんなことを踏まえると、彼らと実写映像の絡みはいっそう面白いことになる。81年のクーデターでテレビ局を占拠した部隊の隊長は、収録中の映像のなかで、復讐の鬼と化したニノがブルーノに強烈などつきを食らわすのを目の当たりにして、「ついにその時がきた」と囁く。つまり今度は、ニノの方がフランコになっているのだ。しかもニノは、バルセロナ五輪のスターの座を金で買うことによって、サマランチIOC会長ともなる。 そこで、かつてサマランチがフランコに接近し、スポーツ界に基盤を築いたことを思い起こすなら、独裁時代からのせめぎあいは映画の最後までつづいていることになる。

 イグレシアは、必死に相方を蹴落とそうとするコンビを通して、奇妙なリアリティに満ちたスペイン現代史を描いてしまうのである。


(upload:2001/06/10)
 
 
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