■■死刑制度、廃止運動、冤罪をめぐって入り組む生と死■■
アラン・パーカー監督の『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』は、死刑廃止論者だった大学教授に対して、レイプと殺人の罪による死刑が確定し、刑の執行を待つという皮肉な状況から物語が始まる。そんな彼は、自分の告白を雑誌に50万ドルで売り込み、女性記者を指名し、最後の3日間で自分に起こったことを語りだす。
この映画の衝撃は、彼が語る物語から浮かび上がる冤罪の可能性と結末で明らかになるもうひとつの真相のギャップから生まれる。その真相は、不確定的な要素に満ちた彼の物語を鮮やかに裏切る。だが、その物語にはヒントが散りばめられている。
デビッドは、死刑制度の是非を問う知事とのテレビ討論を終えた直後に、教え子のレイプ容疑で逮捕される。落第を逆恨みした学生が彼を罠にはめたのだ。テレビ討論で知事から、実際に冤罪の死刑囚がいるのかと詰め寄られ、沈黙を余儀なくされた彼は、その直後に冤罪で逮捕されるわけだ。
間もなく訴えは取り下げられるものの、周囲の目は明らかに変化し、彼は妻子から見離され、大学も首になり、孤立していく。また一方で彼は、死刑廃止運動に従事するかつての同僚の女性が不治の病に侵されていることを知る。冤罪によって家族や地位を奪われ、彼女を通して迫りくる死を目の当たりにする彼は、どこかで冤罪の死刑囚と意識を共有している。そんな意識が映画の意外な結末を招き寄せるのだ。
■■ウイルスや異変による終末世界で目撃する恐怖■■
終末世界を描く映画もまた、人間の生と死に異なる光をあてる。ダニー・ボイル監督の『28日後...』では、主人公が交通事故による昏睡状態から目覚めると、ロンドンはウイルスの蔓延によって無人の世界と化し、飯田譲治監督の『ドラゴンヘッド』では、原因不明の事故でトンネルに閉じ込められた主人公が外に出ると、そこには不気味な灰に覆われて荒廃した世界が広がっている。
二本の映画には共通点がある。主人公たちはラジオの放送に救いを求め、ロンドンからマンチェスター、静岡から東京に向かうが、彼らが目撃するのは、ウイルスや異変の恐怖よりもむしろ、欲望を剥きだし、凶暴化し、あるいは現実逃避する人間の恐怖だ。
しかし、そのリアリティはまったく違う。たとえば、実際におびただしい数の監視カメラによって治安が強化されたロンドンが、目に見えないウイルスによって無人となった光景は、それだけで現代の空虚を浮き彫りにしている。これに対して、『ドラゴンヘッド』の終末世界は、そんな現実との接点を欠き、表層的な異変のヴィジョンそのものが空虚に見えてくる。
■■絶体絶命の窮地から瞬時に異次元に移行するトリップ感覚■■
石井聰互監督の『DEAD END RUN』は、逃げる男を主人公にした三つの物語で構成されている。男たちは、それぞれに観客には見えないある状況から逃走をはかり、その果てにDEAD END=袋小路に至る。
彼らには、追手との対決とその先にある死が約束されているといえる。ところがその約束は、男たちが生死を分ける瞬間に見事に裏切られる。
第一話で、男が追手だと思い、転がっていた鉄棒で強烈な一撃を加えた相手は、追手とは無関係の女だった。ところが、死んだと思った女は、機械のような異様な動作で起き上がったかと思うと、華麗に踊りながら歌いだし、緊迫した状況はミュージカルへと切り替わる。
第二話では、男が、銃を構えてにじり寄る刺客の顔にもうひとりの自分を見る。第三話では、マンションの屋上に追い詰められた男が、そこに居合わせた女を人質にとるが、なんと彼女は男から銃を奪い、その銃口を自分の頭に向け、生と死の力関係が転倒する。
この映画は、それまで男たちを支配していた生と死の位相を、突然、異なる次元へと放りだすことによって、閉塞的な空間から解放されるようなトリップ感覚を生みだしてみせる。
■■強運の意味を掘り下げ、深遠で斬新なドラマを生み出す■■
スペインの新鋭フアン・カルロス・フレスナディージョ監督の『10億分の1の男』は、人間の持つ“運”に着目することによって、生と死の位相が異なる次元からとらえられていく。
トマスは、飛行機の墜落事故でただ一人の生存者となる。だが、病院で手当てを受けたときに、身体に巻きつけた大量の札束から銀行強盗の犯人であることが露見し、警察の監視下に置かれる。そんな彼の病室に、保険会社の人間を装った男フェデリコが現れ、逃走の手引きをする。そして、女性刑事のサラが彼らを追う。
というように書けば犯罪映画だが、運をめぐるドラマは、彼らの関係を鮮やかに塗り替えていく。
フェデリコは、強運の人間だけに挑戦権が与えられる奇妙なゲームにトマスを引き込む。それを勝ち抜けば、30年間負けたことがないサムに挑戦し、「世界一の強運」を手にできるというのだ。挑戦者たちは、頭に糖蜜を塗り、暗闇のなかに放たれた一匹の昆虫を招き寄せ、あるいは、目隠しをして、先導者の声を頼りに林のなかをひたすら走りつづける。 |