スペイン映画界で異彩を放つアレックス・デ・ラ・イグレシアの『みんなのしあわせ』には、これまでの作品とは違う新しい試みがある。この映画は「ひとつのセットだけでサスペンス映画を作りたい」という監督の希望から発展し、舞台がほとんどひとつの建物に限定された作品になった。
宇宙に反キリスト、マスメディアや消費社会(『ビースト 獣の日』)、アメリカとメキシコにグローバリゼーション(『ペルディータ』)、歴史のなかでせめぎ合うふたつのスペイン(『どつかれてアンダルシア(仮)』)など、この監督の世界はいい意味で見境なく膨張していくところがあるので、あえて空間を限定してみたくなる気持ちもわからないではない。
いや、もっと厳密にいえば、前作の『どつかれてアンダルシア(仮)』にはこの新作に繋がる変化が表れていた。イグレシアの作品には、常に壮絶なせめぎあいを生みだすような境界があり、境界に関わる人物が登場してきた。しかし、前作に登場するニノとブルーノは境界と関わりがない。彼らはお笑い芸人のコンビで、やせのブルーノがでぶのニノをどつくという単純な対立の図式が、抑圧する者と抑圧される者のメタファーとなり、スペインの歴史を取り込んでいく。
具体的な境界と関係がなく、しかも対立の図式が単純であるからこそ、それがメタファーになる。『みんなのしあわせ』には、そうした発想が生かされている。
不動産屋に雇われて部屋を売るヒロインのジュリアは、勝手に私物化していた部屋やアパートから出られなくなる。階上で死んだ老人が隠していた大金をネコババしたまではよかったが、実は住人たちはその金を山分けするつもりで、20年間も老人の死を待ちつづけていたのだ。
そこで始まる住人とヒロインの死闘には、『スター・ウォーズ』や『マトリックス』などのパロディが随所に散りばめられているが、決してただ笑えるだけのドタバタではない。単純な図式がメタファーになるからだ。
すぐに思い浮かぶのは、フランコ独裁時代の終わりだろう。フランコは血を流す革命によって打倒されたのではなく、死ぬまで体制を維持し、その死後に何も起こらなかったことが革命となった。このアパートの住人たちもそんな“たなぼた”を期待してその日を待っていたが、思わぬ邪魔が入り、死闘、あるいは権力闘争に発展するのだ。
そればかりか、変化する社会のなかでまったく異なるメタファーになる可能性もある。たとえば、この映画をデイヴィッド・フィンチャーの『パニック・ルーム』と重ねてみるのもそれほど難しいことではないはずだ。『パニック・ルーム』では、亡くなった大富豪が隠していた遺産をめぐって、まったく関係のない母娘と三人組の男たちが対決しなければならなくなる。
『みんなのしあわせ』には、堅牢な“パニック・ルーム”は出てこないが、強烈なブラックユーモアで単純な図式を際立たせる。突然出現する境界をめぐる対立は、現代社会に起こる様々な出来事のメタファーになりそうだ。 |