常に何か斬新でとんがったものを求めている人にとって、この映画は退屈に思えることだろう。たとえどんなに俳優の演技が素晴らしく、自然が美しく、物語が純粋かつ官能的で、お伽噺的な魅力があったとしても、所詮はただの恋愛映画ではないか、というように。
確かにこれは恋愛映画だが、そこからただの恋愛しか見えないのは、これを観る人間の想像力が貧しいからだ。
われわれが未来について考えるとき、何度でも振り返っておく必要がある時代があるとすれば、それは間違いなく戦後の50年代だ。冷戦から生まれた50年代の価値観は、その支えであった冷戦構造が崩壊すれば見直されて当たり前だが、まるで何事もなかったかのようにだらだらと引き継がれている。
50年代半ばのスウェーデンの田舎町を舞台にしたこの映画には、たとえば、フリドリク・トール・フリドリクソン監督のアイスランド映画「精霊の島」に通じる視点がある。つまり自分たちの出発点を極力身近な、小さな世界を通して振り返り、いま自分たちがいる場所を再確認するということだ。
「精霊の島」と同じようにこの映画にも、アメリカ帰りで、アメリカ体験を自分の支えにしている若者が登場する。孤独な主人公は、唯一の友人といえるこの若者の言いなりになっている。その主人公の前に、50年代ファッションが眩しい都会的な女性が現れる。
この映画では、
彼女の過去はほとんど語られないが、彼女がこれまでどんな生活を送ってきたかを察するのは難しいことではない。そんな彼女が漂わせるエロティシズムの質は、主人公との関係のなかで確実に変化していく。そして自分に閉じこもっていた主人公も、友人の若者の言葉ではなく、
自分を信じることによって逞しい人間へと変貌を遂げていく。
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