精霊の島
Devil's Island


1996年/アイスランド/カラー/103分/ビスタ(1:1.85)/ドルビーSR
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(初出:「精霊の島」劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

あの時代への愛情と惜別のモニュメント

 

 ■■輝いていたアメリカ■■

 第2次大戦後の50年代、戦勝国アメリカはまばゆいばかりの輝きを放った。未曾有の好景気を背景に大量消費時代が幕をあけ、人々の生活は一変した。芝生のある一戸建てに暮らすことが手の届くところにあるアメリカン・ドリームになった。急激に普及したテレビが娯楽の中心になり、様々な電化製品、クルマ、 ファッションなど何もかもが新しくなった。人々は、そんな豊かで明るくイノセントなイメージに満ちたアメリカン・ウェイ・オブ・ライフに邁進した。

 さらにこの消費社会からは、子供でも大人でもないティーンエイジャーが現われ、その若者たちはロックンロールやスリルに満ちた青春映画に魅了されていった。そして、 言うまでもなくこうした新しいライフ・スタイルやポピュラー・カルチャーは、本国アメリカばかりではなく世界の国々にも多大な影響を及ぼすことになった。

 フリドリクソン監督の映画「精霊の島」では、戦後も米軍が駐留し、アメリカ文化が流入してくる50年代のアイスランドが、ある家族の物語を軸に、独自の視点、世界観で描かれている。

 ■■境界をめぐるドラマ■■

 この映画では、登場人物たちの生活に様々なかたちでアメリカが影を落とし、アイスランドとアメリカの境界からドラマが紡ぎだされていく。それはたとえば、米軍が残していったバラックである。

 この粗末な建物は、主人公一家のように家のない人々にとってはかけがえのない住処となるが、 子供たちはバラックに住んでいるという理由で苛めにあい、さらには、取り返しがつかない悲劇の引き金ともなる。しかし、真新しい公団アパートが建てられ、そこに引っ越す隣人が出てくるようになったときには、そうした生活に対するささやかな抵抗の象徴ともなるのだ。

 そして、このような境界をいっそう際立たせることになるのが、アメリカで暮らす母親ゴゴを訪ね、アメリカにかぶれて戻ってくるバディの存在だ。それゆえ、彼と弟のダンニは実に対照的な道を歩んでいくのだが、そこには50年代アメリカの衝撃がもたらす皮肉な運命を垣間見ることができる。 バディは実際にはティーンエイジャーといえる年ではないが、まるでそんな時代が永遠につづくかのような幻想にとりつかれている。

 一方、そんなティーンエイジャーという感覚をまったく持ちあわせないダンニは、いつまでも内気な子供のように見えるが、飛行士になるという目的を達成したとき、突然大人へと変貌をとげる。 この大人に成りきれないバディと一瞬にして大人への階段を駆け上がってしまうダンニのコントラストには、ふたつの世界の落差がよく現われている。

 この映画ではさらに、そんな境界をめぐるドラマが目には見えない世界にまで広がっていく。映画を通してアイスランドの神話的な土壌を見つめるフリドリクソン監督の作品では、神秘的な精霊や悪魔の存在が、現実を揺さぶり、深遠な世界を切り拓いていくが、この映画でも悪魔の存在が独特の空気をかもしだし、 ドラマに現実的な価値観では割り切れない深みを生み出している。

 


◆スタッフ◆

監督/製作
フリドリック・トール・フリドリクソン
Fridrik Thor Fridriksson
原作/脚本 エイナル・カラソン「デヴィルズ・アイランド」
Einar Karason "Devil's Island"
撮影 アリ・クリスティンソン
Ari Kristinsson
編集 スティングリムール・カールソン/スクーレ・アリクセン
Steingrimur Karlsson/Skule Eriksen
音楽 ヒルマル・オルン・ヒルマルソン
Hilmar Orn Hilmarsson
製作 ペーター・ロンメル/エイイル・オーゼガード/ペーター・アールベーク・ヤンセン
Peter Rommel/Egil Odegaard/Peter Aalbaek Jensen

◆キャスト◆

バディ
バルタザル・コルマキュル
Baltasar Kormakur
トマス ギスリ・ハルドルソン
Gisli Halldorsson
カロリナ シギュルベイ・ヨンスドッティール
Sigurveig Jonsdottir
ドリー ハルドラ・ギェイルハルズドッティール
Halldora Geirhardsdottir
ダンニ スヴェイン・ギェイルソン
Sveinn Geirsson
グレッティル グズミュンドゥル・オラフソン
Gudmundur Olafsson
グリョウニ イングヴァール・E・シーグルズソン
Ingvar E.Sigurdsson

(配給:ユーロスペース)
 
 
 


 カロリナは鋭い霊感の持ち主で、悲劇を招き寄せる悪魔の存在を感じとることができる。その悪魔の存在には、やはりふたつの世界が入り交じっている。つまり、アイスランドの神話的な土壌から立ち上がってくる悪魔のイメージとともに、アメリカの悪魔のイメージも見えてくるということだ。 この映画には、ロックンローラー気取りのバディが靴を磨くと悪いことが起きるというエピソードが盛り込まれているが、これはまさにアメリカの悪魔の暗示である。ロックンロールの出発点にはブルースがあり、たとえば有名なブルースマン、ロバート・ジョンソンには、彼が悪魔に魂を差しだすかわりにブルースの才能を手にしたという伝説がある。 というようにブルースと悪魔には密接な結びつきがあり、その関係はロックンロールに引き継がれている。バディが靴を磨く姿には、そんなロックンロールの悪魔のイメージが漂っているのだ。

 ■■善でも悪でもない深遠な世界■■

 そんなふうに書くと、この一家の周辺はどちらを向いても悪魔ばかりで、救いがないようにも見えるが、筆者は、この映画で悪魔が招き寄せるものが必ずしも悲劇と言い切ることはできないと思う。たとえば、カロリナの予言が思いもよらないところで現実となるダンニの死は、現実のドラマとしてみれば確かに悲劇であり、 カロリナもこの残酷な悪魔の所業を激しく呪う。しかしフリドリクソン監督の眼差しは、こうしたドラマを善と悪のような二分法で割り切ってはいない。

 ダンニの死が明らかになったとき、ドラマを振り返って印象深く思えてくるエピソードがある。ダンニが密かに想いを寄せていたフヴェラゲルズルが、バディと結婚することになったとき、絶望した彼は、かわいがっていた鳩を逃がす。その鳩は自由の身になって自然に帰っていったのだろうが、筆者には、 飛行士になったダンニもまたバラックという小さな世界から飛び立ち、自然に帰っていったような印象を受けるのだ。アメリカの洗礼を受け、それに縛られるバディは、もはやアイスランドという世界に何も意味を見出すことはできないが、ダンニは大空からアイスランドの壮大な大地を発見し、その景観を見渡す彼の表情は無上の喜びに満ちている。 そんな彼が土に返っていくのは現実のドラマの枠を越えてとても自然なことのようにも思えてくるのである。

 これは何もダンニひとりに限ったことではない。この映画はドラマが進展し、登場人物たちの背景や人間が見えてくるに従って、現実の家族の物語であると同時に、どこか神話的な雰囲気が漂う物語にも見えてくる。トマスは、未婚のままゴゴの母親になったカロリナの境遇に同情し、彼女と結婚した。ゴゴは米兵と結婚して、 三人の子供たちを残したままアメリカに旅立ってしまう。彼女の息子であるバディとダンニは、この母親の結婚も大きく影響して、まったく対照的な道を歩む。もうひとりの娘ドリーの子供ボボは軽く足を引きずり、悪魔の力によってオペラが歌えるようになる。彼らは血の繋がりを通して何か運命的なものを背負いつづけているように見えるし、 実際には血の繋がりのないトマスが、そんな様々な苦難に直面する一家を黙々と支えていく姿というのも妙に印象に残る。

 ■■隔たりと癒し■■

 そして、そうした流れを踏まえてみると、映画の終盤の部分は、非常に象徴的なドラマになっていることがわかる。ゴゴは米兵と別れて今度はノルウェー人と再婚することを決める。その結果、バディはアメリカとの繋がりを完全に失うことになる。母親の影響でアメリカ文化の虜になった彼は、 自分がまったく帰属意識を感じないアイスランドに取り残され、孤立する。バディとダンニは、それぞれにバラックの世界を飛びだしてまったく対極にある世界を発見した。孤立するバディがダンニの墓を訪ね、「お前は安住の地を得た。でも、俺には何があるんだ?」と語りかけるその言葉からは、生と死とは異なるふたりの世界の隔たりが浮かび上がる。

 そんなバディのドラマに対して、それにつづく映画のラストでは、もうひとつのドラマがまったく対照的な雰囲気をかもしだす。チャップリンの真似をしながら今日もまたドッグに向かうトマスとそれをオペラで送るボボの姿。そこでは、チャップリンという異文化の産物と島の悪魔から授かったオペラというアイスランドの土壌が共鳴しあっている。 そして、カロリナを引き受けることによって四世代を支えることになったトマスと彼の曾孫であるボボのこの深い絆は、対極にある世界に隔てられることになったバディとダンニの哀しみを少しずつではあるが確実に癒していくようにも思えてくる。

 要するに、バディとダンニの関係は、アイスランドにアメリカ文化が流入することによって、ふたつの世界のはざまで激しいエネルギーが放出され、その刺激のなかでアイスランドの文化そのものも覚醒していくことを物語っている。そしてトマスとボボの絆は、ふたつの世界がどこまでも対立していくわけではなく、 人々の感情を通してその境界が次第に消失し、しっかり根づいていくことを物語っているのだ。

 最後に、筆者は先ごろ来日したフリドリクソン監督にインタビューすることができたのだが、彼の映画作りについて印象に残った言葉がある。彼の映画ではどの作品でも、葬式や供養、墓地でのドラマが印象的に描かれている。そのことについて彼は、墓石を作る仕事を十年間ほどしていたことがあり、映画も墓石を作るような気持ちで作っていると語っていた。 「精霊の島」は、アイスランドの50年代を集約したような家族の物語を通して、その時代とそれを生きたすべての人々に対する深い愛情と惜別の気持ちをフィルムに刻み込んだ、モニュメントのような作品といえるのではないだろうか。


(upload:2001/01/06)
 

《関連リンク》
フリドリック・トール・フリドリクソン・インタビュー 『精霊の島』 ■
フリドリック・トール・フリドリクソン 『ムービー・デイズ』 レビュー ■
コリン・ナトリー 『太陽の誘い』 レビュー ■
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