カロリナは鋭い霊感の持ち主で、悲劇を招き寄せる悪魔の存在を感じとることができる。その悪魔の存在には、やはりふたつの世界が入り交じっている。つまり、アイスランドの神話的な土壌から立ち上がってくる悪魔のイメージとともに、アメリカの悪魔のイメージも見えてくるということだ。
この映画には、ロックンローラー気取りのバディが靴を磨くと悪いことが起きるというエピソードが盛り込まれているが、これはまさにアメリカの悪魔の暗示である。ロックンロールの出発点にはブルースがあり、たとえば有名なブルースマン、ロバート・ジョンソンには、彼が悪魔に魂を差しだすかわりにブルースの才能を手にしたという伝説がある。
というようにブルースと悪魔には密接な結びつきがあり、その関係はロックンロールに引き継がれている。バディが靴を磨く姿には、そんなロックンロールの悪魔のイメージが漂っているのだ。
■■善でも悪でもない深遠な世界■■
そんなふうに書くと、この一家の周辺はどちらを向いても悪魔ばかりで、救いがないようにも見えるが、筆者は、この映画で悪魔が招き寄せるものが必ずしも悲劇と言い切ることはできないと思う。たとえば、カロリナの予言が思いもよらないところで現実となるダンニの死は、現実のドラマとしてみれば確かに悲劇であり、
カロリナもこの残酷な悪魔の所業を激しく呪う。しかしフリドリクソン監督の眼差しは、こうしたドラマを善と悪のような二分法で割り切ってはいない。
ダンニの死が明らかになったとき、ドラマを振り返って印象深く思えてくるエピソードがある。ダンニが密かに想いを寄せていたフヴェラゲルズルが、バディと結婚することになったとき、絶望した彼は、かわいがっていた鳩を逃がす。その鳩は自由の身になって自然に帰っていったのだろうが、筆者には、
飛行士になったダンニもまたバラックという小さな世界から飛び立ち、自然に帰っていったような印象を受けるのだ。アメリカの洗礼を受け、それに縛られるバディは、もはやアイスランドという世界に何も意味を見出すことはできないが、ダンニは大空からアイスランドの壮大な大地を発見し、その景観を見渡す彼の表情は無上の喜びに満ちている。
そんな彼が土に返っていくのは現実のドラマの枠を越えてとても自然なことのようにも思えてくるのである。
これは何もダンニひとりに限ったことではない。この映画はドラマが進展し、登場人物たちの背景や人間が見えてくるに従って、現実の家族の物語であると同時に、どこか神話的な雰囲気が漂う物語にも見えてくる。トマスは、未婚のままゴゴの母親になったカロリナの境遇に同情し、彼女と結婚した。ゴゴは米兵と結婚して、
三人の子供たちを残したままアメリカに旅立ってしまう。彼女の息子であるバディとダンニは、この母親の結婚も大きく影響して、まったく対照的な道を歩む。もうひとりの娘ドリーの子供ボボは軽く足を引きずり、悪魔の力によってオペラが歌えるようになる。彼らは血の繋がりを通して何か運命的なものを背負いつづけているように見えるし、
実際には血の繋がりのないトマスが、そんな様々な苦難に直面する一家を黙々と支えていく姿というのも妙に印象に残る。
■■隔たりと癒し■■
そして、そうした流れを踏まえてみると、映画の終盤の部分は、非常に象徴的なドラマになっていることがわかる。ゴゴは米兵と別れて今度はノルウェー人と再婚することを決める。その結果、バディはアメリカとの繋がりを完全に失うことになる。母親の影響でアメリカ文化の虜になった彼は、
自分がまったく帰属意識を感じないアイスランドに取り残され、孤立する。バディとダンニは、それぞれにバラックの世界を飛びだしてまったく対極にある世界を発見した。孤立するバディがダンニの墓を訪ね、「お前は安住の地を得た。でも、俺には何があるんだ?」と語りかけるその言葉からは、生と死とは異なるふたりの世界の隔たりが浮かび上がる。
そんなバディのドラマに対して、それにつづく映画のラストでは、もうひとつのドラマがまったく対照的な雰囲気をかもしだす。チャップリンの真似をしながら今日もまたドッグに向かうトマスとそれをオペラで送るボボの姿。そこでは、チャップリンという異文化の産物と島の悪魔から授かったオペラというアイスランドの土壌が共鳴しあっている。
そして、カロリナを引き受けることによって四世代を支えることになったトマスと彼の曾孫であるボボのこの深い絆は、対極にある世界に隔てられることになったバディとダンニの哀しみを少しずつではあるが確実に癒していくようにも思えてくる。
要するに、バディとダンニの関係は、アイスランドにアメリカ文化が流入することによって、ふたつの世界のはざまで激しいエネルギーが放出され、その刺激のなかでアイスランドの文化そのものも覚醒していくことを物語っている。そしてトマスとボボの絆は、ふたつの世界がどこまでも対立していくわけではなく、
人々の感情を通してその境界が次第に消失し、しっかり根づいていくことを物語っているのだ。
最後に、筆者は先ごろ来日したフリドリクソン監督にインタビューすることができたのだが、彼の映画作りについて印象に残った言葉がある。彼の映画ではどの作品でも、葬式や供養、墓地でのドラマが印象的に描かれている。そのことについて彼は、墓石を作る仕事を十年間ほどしていたことがあり、映画も墓石を作るような気持ちで作っていると語っていた。
「精霊の島」は、アイスランドの50年代を集約したような家族の物語を通して、その時代とそれを生きたすべての人々に対する深い愛情と惜別の気持ちをフィルムに刻み込んだ、モニュメントのような作品といえるのではないだろうか。 |