シャトーブリアンからの手紙
La mer a l’aube / Das Meer am Morgen


2012年/フランス=ドイツ/ドイツ語・フランス語/カラー/91分/ヴィスタ/5.1ch
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(初出:)

 

 

ケイトの人生を象徴する古都ロンドン

 

 以前、「London Evening Standard」のネット版で、こんな記事を目にした。ロンドンの映画産業が成長を遂げ、ハリウッドとニューヨークに次ぐ映画製作の拠点になっている。また、『ノッティングヒルの恋人』(99)、『ブリジット・ジョーンズの日記』(01)、『ダ・ヴィンチ・コード』(06)などの大作・話題作の舞台になることで、観光客も増加している、といった内容だった。

 イギリスではサッチャー政権下の80年代に、ロンドンの大規模な再開発プロジェクトが始動し、さらに21世紀の到来を記念するミレニアム・プロジェクトも加わった。その結果、ロンドンが大きな変貌を遂げたことも、映画の舞台として注目される要因になっている。

 たとえば、『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』(99)では、テムズ川を下るボートチェイスによって、ビッグ・ベンやタワー・ブリッジから高層ビル群のあるドックランズやミレニアム・ドーム(現The O2)まで、新旧のロンドンが見渡せる。『Jの悲劇』(04)や『マッチポイント』(05)には、ミレニアム・ブリッジや発電所を現代美術館に改造した人気のスポット、テート・モダンが登場する。

 その一方、知られざるロンドンに目を向ける作品も目立つ。スティーヴ・ナイトの脚本を映画化した『堕天使のパスポート』(02)と『イースタン・プロミス』(07)では、不法滞在者やロシアン・マフィア、臓器売買や人身売買の世界が描き出される。さらに、『28日後…』(02)や『愛をつづる詩』(04)に、監視カメラの映像が盛り込まれていることにも注目すべきだろう。ロンドンには世界のどの都市よりも多くの監視カメラがあるからだ。

 それでは『新しい人生のはじめかた』のロンドンはどうか。この映画では、ミレニアム・プロジェクトの産物のひとつであるロンドン・アイ(観覧車)も目に入るが、全体としては、トラファルガー広場、セント・ポール大聖堂、サマセット・ハウスなど、歴史を感じさせる場所が印象に残る。しかし、単に古都の雰囲気を醸し出そうとしているわけではない。舞台とドラマには、直接的ではないが、想像力をかきたてるような繋がりがある。

 監督・脚本を手がけたジョエル・ホプキンスは、アメリカ人とイギリス人の関係にひねりを加え、独特のユーモアを生み出している。注目したいのは、空港のバーでハーヴェイとケイトが再び顔を合わせる場面だ。ハーヴェイは、イギリス人は閉鎖的だと思っている。ケイトはそんな彼にこのように語る。ダイアナが亡くなってからイギリス人はオープンになった。それはアメリカ人の影響であり、 “硬い上唇(a stiff upper lip)”は昔の話だと。そこには皮肉なユーモアがある。ケイトはわざわざ硬い上唇を実演してみせるが、実はハーヴェイも彼女も前の晩に辛い体験をして、感情を表に出さず平静を保つためにその状態になっていたからだ。

 ケイトが語るようにイギリス人が変わったとするなら、それは先述したロンドンの変化と無縁ではないだろう。サッチャー政権はアメリカ型の市場主義を導入し、イギリス社会全体がアメリカ化した。それを踏まえるなら、アメリカ人の影響を受けて国民が変化することもあり得る。そして、もしこの映画の主人公がそうした変化を象徴するような人物だとしたら、背景には新しいロンドンが相応しい。但し、そうなるとイギリス人とアメリカ人が出会うことはそれほど意味を持たなくなるが…。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   フォルカー・シュレンドルフ
Volker Schlondorff
撮影監督 ルボミール・バックチェフ
Lubomir Bakchev
編集 スザンネ・ハルトマン
Susanne Hartmann
音楽 ブリュノ・クレ
Bruno Coulais
 
◆キャスト◆
 
ギィ・モケ   レオ=ポール・サルマン
Leo-Paul Salmain
ジャン=ピエール・タンボー マルク・バルベ
Marc Barbe
エルンスト・ユンガー ウルリッヒ・マテス
Ulrich Matthes
クロード・ラレ マルタン・ロワズィヨン
Martin Loizillon
オデット・ネリス ヴィクトワール・デュボワ
Victoire Du Bois
ルシアン・トゥーヤ収容所長 ジャン=マルク・ルーロ
Jean-Marc Roulot
ベルナール・ルコルヌ副知事 セバスチャン・アカール
Sebastien Accart
ジョルジュ・シャサーニュ リュック・フロリアン
Luc Florian
ハンス・シュパイデル大佐 ハラルド・シュロット
Harald Schrott
クリストゥカト司令官 クリストファー・ブッフホルツ
Christopher Buchholz
ドイツ兵ハインリッヒ・オットー ヤコブ・マッチェンツ
Jacob Matschenz
駐仏ドイツ大使オットー・アベッツ トマシュ・アーノルド
Tomas Arnold
ジルベール・ブルストラン フィネガン・オールドフィールド
Finnegan Oldfield
モヨン神父 ジャン=ピエール・ダルッサン
Jean-Pierre Darroussin
カミーユ アリエル・ドンバール
Arielle Dombasle
シュテュルプナーゲル将軍 アンドレ・ユング
Andre Jung
-
(配給:ムヴィオラ)
 

 しかし、この映画の主人公は違う。ケイトのキャラクターで興味深いのは、それが文学と結びついているところだ。彼女が読んでいる小説の著者Anita Harmonは架空の作家だと思われるが、明らかにイギリスを代表する女性作家アニタ・ブルックナーを想起させる。ケイトの父親が愛人と南仏に行ってしまったこと、ケイトが母親に振り回されること、とても孤独であること、別の人生を生きたいと思いながらそれを諦めていることなどが、アニタの小説の世界に通じる。アニタの両親はポーランド系ユダヤ人だが、ケイトの母親の隣人がポーランド人というのも決して偶然ではないだろう。

 だからこそ、この映画では、アメリカ人とイギリス人の出会いが意味を持つ。夢を選んだハーヴェイは、一見オープンに見えるが、内心では離婚によって大切なものを失ったことを悔いている。夢を諦め、秘密を抱えて孤独を生きるケイトは、作品に対する評価は別として、フォスターの『眺めのいい部屋』やエリオットの『ミドルマーチ』といったイギリス文学の世界に逃避している。そんな彼女の世界の背景には、古都としてのロンドンが相応しい。この映画のラストで、ケイトはハーヴェイに「あなたは私の人生に飛び込んできたの」と語るが、その彼女の人生や世界をより印象深いものにしているのが、まさにロンドンという舞台なのだ。

 

(upload:2010/08/06)
 
 
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