『心中天使』(10)は、一尾直樹監督にとって劇場デビュー作『溺れる人』(00)に続く2作目の長編劇映画となる。
名古屋を拠点に活動する一尾監督の作品には共通点がある。まず、地域性が前面に出てくることがない。ドラマの背景になるのは、均質化した社会の日常だ。そしてもうひとつ、平凡な日常のなかに、常識的にはあり得ないと思えるようなことが起こる。
たとえば『溺れる人』では、マンションに暮らすひと組の夫婦の生活が描かれる。その生活はありふれたものであり、地域性も見られない。だが、映画の冒頭で奇妙なことが起こる。妻が浴槽で溺れ死ぬ。但しそれは、あくまで浴槽の湯に頭まで浸かっている彼女を発見した夫にとっての現実である。なぜなら、夫が死んでいると思った妻は、翌朝には何事もなかったかのように目覚め、普段どおりに生活しているからだ。
妻に一体なにが起こったのか。彼女は本当に死んでいたのか。この映画では、それは必ずしも重要ではないし、真相らしきものが明らかにされるわけでもない。
この出来事は夫婦の関係を見つめなおすきっかけとなる。妻が一度死んだと思う夫と妻の間には溝ができる。夫には妻の手が異様に冷たいように感じられる。妻は生ものが食べられないにもかかわらず、夫の好物である刺身を食卓にのせる。夫はビデオカメラを使って密かに妻の様子を監視する。
その溝は妻が溺れたことから生まれるわけではない。おそらくそれ以前から存在していたものが、表面化するのだ。いや、正確には表面化するだけではなく、死を通して二人の世界の違いが明らかになる。彼らが感じるのは、いずれも恐怖や絶望ではない。
妻は浴槽で溺れたときに、夢のなかの世界を彷徨っていて、死が夢見るようなものだとすればそれも悪くはないように思っていた。夫の方は、妻が死んだことによって、彼女が完全に自分のものになったと密かに感じていた。それは、二人の世界が根本的に乖離していることを物語っている。
『心中天使』は、社会やコミュニケーションの変化を踏まえながら、乖離した世界のその先を描く作品と見ることもできるだろう。 |