詩人・作詞家である御徒町凧(おかちまち かいと)の初監督作品『真幸くあらば』の物語は、万田邦敏監督の『接吻』のそれを思い出させるかもしれない。
『接吻』では、一見ごく普通のOLが、テレビのニュースで連行される殺人犯の男を目にした瞬間に恋に落ちる。彼女は男に手紙を書き、面会し、彼の心を動かしていく。そしてふたりは、死刑が確定したあとも面会できるように結婚する。
『真幸くあれば』では、空き巣に入り、そこに居合わせた男女を衝動的に殺害し、死刑を宣告された青年・南木野淳の前に、クリスチャンの女性・川原薫が現れる。淳にも関わる秘密を持つ彼女は、彼の養母となることで、死刑が確定したあとも面会をつづける。
確かに設定は似ているが、2本の映画が描き出す愛はまったく違うものだ。愛の発見――『ランジェ公爵夫人』と『接吻』をめぐってに書いたように、『接吻』では、男が犯す罪とOLの行動の双方が、世の中から黙殺された不可視の存在が可視の存在になること、愛するための身体を獲得することと深く関わっている。
『真幸くあらば』の男女には、そういう意味での抑圧は見られない。この映画の場合は、薫と淳、特に秘密があり、淳に対して複雑な感情を抱いているはずの薫が、なぜ彼に惹かれていくのかを頭で考えようとすると、その魅力が失われることになるだろう。
男女の関係を成り立たせるもの、そのヒントは、タイトルにあるといえる。このタイトルは、『万葉集』に収められた有間皇子の歌「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」から取られている。そこで、この歌の意味を解釈し、謀反の咎で捕らえられ、処刑を控えた有間皇子と淳の心境を重ねるようなことをするつもりはまったくない。
筆者が関心を覚えるのは、『万葉集』に込められた人の感情の在り方だ。この映画を観ながら筆者は、和辻哲郎の『日本精神史研究』のなかに収められた『万葉集』と『古今集』の比較のことを思い出していた。その違いが簡潔に表現されている部分をいくつか抜き出してみたい。
「『万葉集』の歌は常に直観的な自然の姿を詠嘆し、そうしてその詠嘆に終始するが、しかし『古今集』の歌はその詠嘆を何らかの知識的な遊戯の框にはめ込まなければ承知しない」
「感情の切実な表白よりも、その感情にいかなる衣を着せて現わすべきかの方が、『古今』の歌人には重大事であった」
「『古今』の歌人が開いた用語法の新しい境地は一方に叙情詩の堕落を激成した。多義なる言葉を巧みに配して表裏相響かしめることが彼らの主たる関心となり、詠嘆の率直鋭利な表現は顧みられなくなった。が、また他方にはこれによって細やかなる心理の濃淡の描写が可能にされる。長い物語の技巧が漸次成育して行ったのは、情緒を表現する言葉の自由なる駆使が『古今』の歌人によって始められたことに負うところ少なくない。この意味でも『古今集』は物語の準備である」
そこから物語が発達し、大きな物語が生み出されていった。しかしいまでは、物語の基盤となっていた歴史や宗教、地域社会や家族の絆が崩壊し、物語は失われつつある。 |