真幸くあらば


2009年/日本/カラー/91分/ヴィスタ/DTSステレオ
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(初出:未発表)

『万葉集』と響きあう感情の切実な表白

 詩人・作詞家である御徒町凧(おかちまち かいと)の初監督作品『真幸くあらば』の物語は、万田邦敏監督の『接吻』のそれを思い出させるかもしれない。

 『接吻』では、一見ごく普通のOLが、テレビのニュースで連行される殺人犯の男を目にした瞬間に恋に落ちる。彼女は男に手紙を書き、面会し、彼の心を動かしていく。そしてふたりは、死刑が確定したあとも面会できるように結婚する。

 『真幸くあれば』では、空き巣に入り、そこに居合わせた男女を衝動的に殺害し、死刑を宣告された青年・南木野淳の前に、クリスチャンの女性・川原薫が現れる。淳にも関わる秘密を持つ彼女は、彼の養母となることで、死刑が確定したあとも面会をつづける。

 確かに設定は似ているが、2本の映画が描き出す愛はまったく違うものだ。愛の発見――『ランジェ公爵夫人』と『接吻』をめぐってに書いたように、『接吻』では、男が犯す罪とOLの行動の双方が、世の中から黙殺された不可視の存在が可視の存在になること、愛するための身体を獲得することと深く関わっている。

 『真幸くあらば』の男女には、そういう意味での抑圧は見られない。この映画の場合は、薫と淳、特に秘密があり、淳に対して複雑な感情を抱いているはずの薫が、なぜ彼に惹かれていくのかを頭で考えようとすると、その魅力が失われることになるだろう。

 男女の関係を成り立たせるもの、そのヒントは、タイトルにあるといえる。このタイトルは、『万葉集』に収められた有間皇子の歌「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む」から取られている。そこで、この歌の意味を解釈し、謀反の咎で捕らえられ、処刑を控えた有間皇子と淳の心境を重ねるようなことをするつもりはまったくない。

 筆者が関心を覚えるのは、『万葉集』に込められた人の感情の在り方だ。この映画を観ながら筆者は、和辻哲郎の『日本精神史研究』のなかに収められた『万葉集』と『古今集』の比較のことを思い出していた。その違いが簡潔に表現されている部分をいくつか抜き出してみたい。

『万葉集』の歌は常に直観的な自然の姿を詠嘆し、そうしてその詠嘆に終始するが、しかし『古今集』の歌はその詠嘆を何らかの知識的な遊戯の框にはめ込まなければ承知しない

感情の切実な表白よりも、その感情にいかなる衣を着せて現わすべきかの方が、『古今』の歌人には重大事であった

『古今』の歌人が開いた用語法の新しい境地は一方に叙情詩の堕落を激成した。多義なる言葉を巧みに配して表裏相響かしめることが彼らの主たる関心となり、詠嘆の率直鋭利な表現は顧みられなくなった。が、また他方にはこれによって細やかなる心理の濃淡の描写が可能にされる。長い物語の技巧が漸次成育して行ったのは、情緒を表現する言葉の自由なる駆使が『古今』の歌人によって始められたことに負うところ少なくない。この意味でも『古今集』は物語の準備である

 そこから物語が発達し、大きな物語が生み出されていった。しかしいまでは、物語の基盤となっていた歴史や宗教、地域社会や家族の絆が崩壊し、物語は失われつつある。


◆スタッフ◆
 
監督   御徒町凧
製作 奥山和由
原作 小嵐九八郎
脚本 高山由紀子
撮影監督 釘宮慎治
編集 石川浩通
音楽監督 森山直太朗
音楽 紺野紗衣
 
◆キャスト◆
 
川原薫   尾野真千子
南木野淳 久保田将至
弁護士 佐野史郎
死刑囚 ミッキー・カーチス
死刑囚 テリー伊藤
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(配給:ティ・ジョイ)
 

 『真幸くあらば』で、淳と薫の背景が見える場面は限られているが、そこには物語の喪失を感じ取ることができる。幼いときから愛に恵まれなかった淳には、刹那と衝動しかなかった。薫は、婚約者に裏切られた。いまではそんな過去を乗り越え、結婚生活を送っているものの、背中越しの会話が示唆するように、夫は彼女の感情を読み取ることができない。

 詩人である御徒町監督は、そんなふたりの関係を物語として語ろうとはしない。彼が『万葉集』の込められた感情の在り方を意識していたかどうかはわからないが、映像の積み重ねは明らかにそこに向かっていく。薫と淳は、聖書に小さな文字で書き込みをする「秘密の通信」によって、内に秘めていたものをすべて告白し、言葉はやがて絵となる。その絵は、「感情の切実な表白」というべきだろう。

 そして、そんな関係が、彼らが交わるクライマックスをより印象深いものにする。その裸体は、もちろん告白によってすべてを曝け出した彼らの内面を象徴してもいる。さらに、裸体を結びつけるのが、月の光であることも見逃せない。『万葉集』の世界と響きあい、彼らが共有できる自然は、おそらく月の光だけだと思えるからだ。

《参照/引用文献》
『日本精神史研究』和辻哲郎●
(岩波書店、1992年)

(upload:2010/01/23)
 
《関連リンク》
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