筆者がまず疑問を覚えたのは、田舎で小さな食堂をはじめたヒロインが、記念すべき最初の客に出す料理だ。かつて彼女は都会に出て、インド人と思われる料理人(「カレーの人」と表現される)と恋に落ち、ふたりで店を出すためにせっせと働いていた。だがある日、カレーの人は、ふたりの財産を持ち逃げしてしまう。彼女はショックのために声まで失い、田舎に戻ってきた。
これはあくまで筆者の想像ではあるが、そんな体験をしたのなら、彼を思い出させるものは間違いなく避けるだろう。いくら料理が好きだからといっても、カレーの匂いは決して嗅ぎたくない。コリアンダーやクミンやターメリックやガラムマサラは処分する。声を失うほど深く傷ついたのであれば、そのくらいのことはするはずだ。ところが彼女は、最初の客にカレーを出す。仕上げにガラムマサラで味を調え、その匂いを嗅いでもなんでもない。彼から得たものを、すんなりと前向きに活用できるのであれば、彼女の傷はほとんど癒えている、と筆者なら考える。
母親のペットだったブタのエルメスが、突然、食べられることになるのも説得力に欠ける。母親は、エルメスを自分の子供のように溺愛していた。幻想とはいえ、ヒロインはエルメスと言葉を交わしている。それでも、料理人としてのヒロインが、自分の手でエルメスの命を奪い、料理するならまだわかる。だが、どこかに運ばれ、肉だけが戻ってくるのでは、墓もたてられない。
この映画では、「生きることは、食べること」というテーマは描かれても、「食べるということは、他を奪い、己が生きるということ」(道場六三郎)という料理人にとって避けることのできないテーマが浮かび上がってくることはない。ラムチョップやアマダイはどこかからただ運ばれてくる。鳩は都合よく扉に激突してくれる。
ファンタジーにすることで、心の痛みや生きることの現実がぼやけ、曖昧になるのであれば、あとは物語や世界を現実離れしたイメージで装飾する役割しか残らなくなってしまうだろう。 |