リュック・ベッソン作品のヒロインは、いつも独特の存在感を放っている。彼女たちは考えたりしない。ベッソンは、考えていたら手遅れのような緊迫した状況、あるいは自分の世界とあまりに異質であるために、考えることに意味がない環境に彼女たちを放りだす。だから彼女たちは、野性的な本能や根源的な力に頼るしかなくなる。
突き詰めれば、ベッソンにとって時代背景や物語の流れはただの飾りにすぎない。彼に興味があるのは、極限の状況に適応し、進化するヒロインの存在だけであり、それだけで映画を成立させてしまうところに彼の魅力がある。
そして、新作『ジャンヌ・ダルク』のヒロインもまた例外ではない。映画の冒頭で、ジャンヌが住む村がイギリス軍に襲われ、姉のカトリーヌが無惨に殺害され、慰み者にされるとき、戸棚のなかに潜むジャンヌは、怯えながら見つめていることしかできない。
しかし、極限の状況が彼女を変えていく。ジャンヌは、戦いの方法すら知らずに戦場の真っ只中に放りだされ、内に秘められた力を呼び覚まし、致命傷を負いながらも再生する。それは、まさしくベッソン作品のヒロインといえる。
しかも映画の後半では、それとは別の意味でベッソンの世界が見えてくる。
ジャンヌは自分の神秘的な体験が、啓示なのか、自分が見たいものを見ただけなのか葛藤し、自分を信じる道を選ぶ。そんな彼女の姿にはベッソン自身がダブる。彼にとって映画を作るということは、物語が稚拙であろうが、荒唐無稽であろうが、レンズの効果で画面が歪もうが、自分が見たいものを啓示だと信じて視覚化することであるからだ。
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