■■異なる世界の感覚を表現するものとしての映画■■
リュック・ベッソンは自分の感性にひたすら忠実に独自の世界を構築していく監督である。この独自の世界を生みだす感性は、彼が映画に出会う前に培われたものだ。もともと彼は、映画館に通いつめる映画少年だったわけでもないし、最初からなるべくして映画監督になったというわけでもない。
ベッソンはパリに生まれたが、両親がダイビングのインストラクターだったため、少年時代のほとんどを地中海沿岸で過ごしている。そして10歳のときにイルカに遭遇し、食べて遊んで愛し合うだけというそのシンプルな生活に強く惹かれ、やがてイルカを研究する海洋生物学者になることを決意する。
ところが、17歳のときにダイビング中の事故で潜ることができない身体になり、この夢を断たれてしまう。そんなベッソンが悩んだすえに選らんだのが映画の世界だった。
しかし彼は、必ずしも最初の夢とまったく違う道として映画を選んだわけではない。むしろ、海の体験で培われた感覚を別なかたちで表現する可能性を秘めた手段として、映画を選んだというべきだろう。これを文字通りにとらえればすぐに『グラン・ブルー』の世界が思い浮かんできてしまうところだが、
それに先立つ長編デビュー作の『最後の戦い』にも2作目の『サブウェイ』にも彼のユニークな感性が反映されている。
この2本の映画にはなかなか興味深い共通点がある。どちらもパリを舞台にしているが、それぞれに現実のパリとは違うもうひとつの世界が浮かび上がってくる。『最後の戦い』では、荒廃し砂に埋もれつつある近未来のパリが舞台となり、『サブウェイ』では、
パリの地下鉄のさらに地中深くに迷路のようなもうひとつの世界が広がっている。
10代のベッソンは、海の世界から離れてパリの学校に通うときには、あまりの退屈さに辟易し、そんな日常から逃れるために様々な物語を書いていた。
そして、事故で潜ることが叶わぬ夢になるといっそう虚構の世界にのめり込むようになった(最新作『フィフス・エレメント』の原案もこのときに書かれたものだ)。この2本の映画にもそうした逃避願望が現われている。
この逃避願望は、たとえば、スティーヴン・スピルバーグの世界と対比してみると面白いかもしれない。少年時代のスピルバーグは、サバービア(新興住宅地)のあまりにも退屈な日常のなかで、テレビや映画を媒介として様々な夢想の世界にのめり込んでいた。
それゆえに彼の映画では、サバービアという舞台にUFOや異星人が訪れ、日常と非日常がせめぎあう、ありきたりに見えて新鮮な映画を作った。
ベッソンの逃避願望にもそれに似たところがある。しかし、決定的に違うのは、彼の場合には映画に出会う以前にパリの日常とはまったく異なる世界を生身で体験しているということだ。まったく異なる世界の感覚というものが確実に自分のなかにある彼は、
パリの日常から逃れようとするときに、そこにどこか外の世界から非日常的なイメージをたぐりよせるのではなく、むしろ日常のなかに、身近な場所にもうひとつの世界を構築してみようとするのだ。
■■異質な環境におけるサバイバル■■
ベッソンのデビュー作『最後の戦い』には、そんな彼の感性が浮き彫りになっている。彼がある世界を設定したとき、その世界の全体像を考え、外枠や背景からディテールを詰めていくというようなことはまったく眼中にない。彼が関心を注いでいるのは、
その世界に放り出された人間が、何を求めどのように生き残っていこうとするかということだ。
『最後の戦い』には、近未来、気候の異変によって世界は荒廃し、人間は言葉を使うことができなくなっているというような設定があるが、実際に映画を観るとそんなことはどうでもよくなる。異なる環境のなかにどう順応し、生き残っていこうとするのか。
言葉もないだけに、不思議なリアリティ漂う登場人物たちの日常を見ているだけで、その世界に引き込まれてしまうのだ。このプリミティヴな世界には、それゆえに近未来が原始時代に逆戻りしたようなユーモアが漂っている。しかしベッソンは、この設定を単なるユーモアにとどめることなく、
限られた登場人物のやりとりだけで、この設定のなかに彼がこだわりつづけることになるふたつの世界を描きだす。
この映画を支配しているのは、まず何よりも力だけがものを言う弱肉強食の世界である。ところが、狂暴な男に襲われて傷を負った若い男が医師に出会うところから、閉ざされた病院の建物のなかにもうひとつの世界が広がる。そして、ふたつの世界は、際立ったコントラストを形作っていく。
病院の外では、狂暴な男が闘争本能をむき出しにして荒れ狂っている。一方、建物のなかでは絆が生まれ、冒頭のイルカの世界ではないが、食事をし、ピンポンで遊び、そして予想もしなかった愛が生まれるかに見える。医者が描く壁画もそれを象徴的に物語っている。
その壁には、最初にラスコーの洞窟壁画を思わせる獣たちの姿があり、医者はそこに新たに、闖入者となった若い男と謎めいた女を描いていく。アダムとイヴというわけではないが、この建物のなかには、明らかに外の世界とは異なる別の世界の誕生を予感させる神話的な雰囲気すら漂いだすのだ。
ベッソンがきわめてユニークなのは、ストーリーに沿ってこうした流れを作っていくのではなく、環境や状況の変化に対して登場人物たちがどう感じ、反応し、順応していくかといったディテールを積み上げていくところにある。それゆえに、荒唐無稽とも思えるような設定から、
妙に感覚や感情に訴えかけてくるような世界と人間の繋がりが浮かび上がってくるのである。
■■ふたつの世界のせめぎあい■■
2作目の『サブウェイ』では、現代のパリという現実世界に対して、地下鉄のさらに地下深くに広がる迷宮のような空間にもうひとつの世界が構築される。これもいかにもベッソンらしい。すぐ足元にもうひとつの世界があったとしたらという程度のシンプルな発想をもとに、
何かそれらしい理屈をそえるのではなく、その環境に順応している奇妙な住人たちの生活感を嗅ぎ取り、彼らの輪をたどっていくことで世界を成立させてしまうからだ。この映画が、様々なジャンルの要素を取り込んでしまうのも、このような彼の感性に秘密があるといっていいだろう。
『最後の戦い』と『サブウェイ』では、現実の世界からもうひとつの世界に迷い込んだ主人公が、そこで願望を叶えるかに見えるが、ふたつの世界のせめぎあいの果てに、苛酷な現実が牙をむく。そこには、ベッソン自身の純粋な憧れと喪失感を垣間見ることができる。特に『最後の戦い』では、
主人公が最終的に苛酷な現実を受け入れ、外の世界の流儀で生き残る道を選ぶという意味で明確な通過儀礼になっている。そして、3作目の『グラン・ブルー』では、このふたつの世界のせめぎあいが別の方向へと発展していくことになる。
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