『蟻の兵隊』の池谷薫監督の新作『先祖になる』は、東日本大震災の被災地・岩手県陸前高田市で農林業を営む77歳の佐藤直志に迫ったドキュメンタリーだ。震災のひと月後に陸前高田を訪れ、この老人に出会った池谷監督とクルーは、1年6ヵ月かけて彼を追い、その生き様を浮き彫りにしている。
佐藤直志の家は大津波で壊され、消防団員だった彼の長男は波にのまれて亡くなった。しかし老人は挫けない。仮設住宅に移ることを拒み、壊れた家を離れようとはしない。きこりでもある彼は、元の場所に家を建て直す決断をくだす。材木を確保するために、津波で枯れた杉をチェーンソーで伐り倒し、病魔とも闘いながら夢に向かって突き進んでいく。
これはドキュメンタリーそのものの醍醐味というべきかもしれないが、池谷監督の作品では導入部から結末に至るまでに、テーマや開ける世界が大きく変わっている。
文革を題材にした『延安の娘』では、最初は父親を探す娘が主人公に見えるが、次第にかつての下放青年に広がる波紋が深い意味を持つようになる。孤軍奮闘する元残留兵・奥村和一に迫った『蟻の兵隊』では、最初は残留問題が主題に見えるが、やがて私たちは、奥村が別の顔を露にし、変貌を遂げていくのを目の当たりにする。
新作『先祖になる』にも同じことがいえる。最初は佐藤直志を通して震災を描き出す作品のように見える。しかし老人の生き様からは次第に異なるテーマが浮かび上がってくる。
この映画を観ながら筆者が最初に想起したのは、石川徹也が書いた『山を忘れた日本人 山から始まる文化の衰退』だ。かつて日本人は、日々の糧から信仰まで山と密接に結びついた世界のなかで生きてきたが、いまではその繋がりがほとんど失われかけている。本書ではそんな現実が、文化人類学や民俗学の視点も交えて掘り下げられている。
山と人の関係で重要な位置を占めているのは山村だが、それは減少するだけではなく、たとえ残っていても本質が失われていることが少なくない。「いま、われわれが見ている山村というものの多くは、都市部の企業になんとか通勤できる人たちが住む山里にある村というに過ぎない。その人たちの視線は山にではなく、里(都会)に向いたままなのだ」(『山を忘れた日本人』)
この映画の佐藤直志は山を向いている。それは単に彼がきこりだからというのとは違う。ここで思い出さなければならないのは、ハレとケの関係だ。
「われわれの暮らしは、そもそも「ハレ(晴れ)」と「ケ(穢)」を基調として成立してきた。日常である労働などのケと非日常である祭りに代表されるハレとの定期的な交歓の中で生まれるダイナミズムによって、生命の躍動が生まれ、生の喜びを得ることができるのである」(『山を忘れた日本人』)
この映画はまさにそのハレとケで構成されている。まず際立つのが日常の労働としてのケだ。直志は、波にのまれた長男の遺体が発見される以前に、すでにダメになった田の代わりに休耕田を借りることを考えていたという。そして実際に田植えを行い、ソバの種も蒔く。彼にとってはどんな状況であっても自給自足が原則で、季節の変化と同じように繰り返されるこの営みが活力の源となる。そして気仙町の「けんか七夕」というハレのときが訪れる。
直志が夢見る家は、このハレとケの繰り返しのなかで形を成していく。ハレとケが家の見えない土台になっているといってもいい。なぜなら、ハレとケの背後には、柳田国男が日本人の信仰の原型と位置づけたような「氏神信仰」があるからだ。川田稔の『柳田国男―「固有信仰」の世界』では、以下のように説明されている。
「柳田によれば、氏神は、代々の祖先の霊の融合したもので、人はだれでも死してのち一定期間をへて氏神に融合するものと考えられていた。この氏神は、通常は村のちかくの山の頂にとどまり、時期をさだめて村を訪れるとされており、そのための主要な儀礼が春と秋の祭であった」
ちなみに、気仙町の「けんか七夕」の由来は、「伝承によれば、今から900余年前、先祖の慰霊のために行ったのが始まりで、おそらく日本で最も歴史の古い七夕祭」であるという。(「気仙町けんか七夕祭り」ホームページ)
直志は、自分が死んだら山に旅立つと信じている。町の今後について話し合う会合では、来春に家を建てると宣言するだけではなく、そこで一年でも二年でも暮らして、山に旅立ちたいと語る。別の場面でも、仮設住宅から山に旅立つのはいやだと語っている。 |