ベルリン国際映画祭で銀熊賞に輝いたキム・ギドク監督の新作『サマリア』と、オウム真理教事件を題材に、カルトの子のその後を描く塩田明彦監督の『カナリア』が同時期に公開されるのは、筆者には興味深いことのように思える。どちらの作品からも現代社会とイニシエーション(通過儀礼)の関係が掘り下げられているからだ。
現代はイニシエーションが失われた時代といえる。河合隼雄総編集の『心理療法とイニシエーション』には、以下のような記述がある。「制度としてのイニシエーションは、近代社会において消滅した。(中略)言うなれば、各人はそれぞれのイニシエーションを自前で自作自演しなくてはならなくなった」
さらに、鎌田東二の『呪殺・魔境論』では、同じことが以下のように表現されている。「子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、変身・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、"イニシエーションなき社会"になってしまったのだ」
そんな現代社会のなかで、オウムはイニシエーションを強調することによって拡大した。『カナリア』では、主人公の少年と少女を通して、本質はどうあれイニシエーションを重視した教団とそれを失った社会が対置され、彼らはふたつの世界のせめぎ合いのなかで答を見出していく。
これに対して、それぞれに「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」と題された三部で構成されるキム・ギドクの『サマリア』は、イニシエーションなき時代の現実から始まり、登場人物たちをめぐる悲劇や苦悩の連鎖がイニシエーションへと結実していく作品といえる。
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