留守宅を渡り歩くことが日常と化している若者テソクは、ある日、侵入した豪邸でそこに暮らすソナに遭遇する。彼女は、独占欲の強い夫に自由を奪われ、監禁同然の日々を送っていた。テソクは、そんなソナを家から連れ出す。二人は、言葉を交わすこともなく空間を共有し、ソナは、テソクの奇妙な日常に馴染んでいく。
彼らは、『魚と寝る女』や『悪い男』の男女と同じように、階層や性、あるいは生そのものが硬直化した制度によって規定される社会=内部から、ここではないどこか=外部へと彷徨い出し、二人だけの世界を作り上げていくように見える。だが、物語はそれで終わらない。
やがて彼らは警察に捕らえられ、ソナは夫に連れ戻され、テソクは服役する。しかし、監獄のテソクに、有り得そうもないことが起こる。彼は次第に、看守の目に見えない存在へと変貌を遂げていく。『魚と寝る女』の釣堀を営む女は、客には見えない水中を自由に泳ぎ、『コースト・ガード』の元海兵隊員は、闇に溶け込んで見えない存在となり、『サマリア』の父親は、娘には見えないところから、彼女に近づく男たちに制裁を加える。
見えない存在というモチーフは、これまでのギドク作品にも見られたが、この映画では、それが新たな次元を切り開いている。しかも、ギドクは、その有り得そうもないことを、非常に自然な流れの帰結として描いているのだ。
実はテソクとソナは、この映画の始まりからすでに、異なる意味で、幽霊のように見えないものとして存在している。テソクは、他者の生活を自分という“空き家”(この映画の原題である)に取り込むことによって、自分を顕在化させる。だがもちろん、彼が取り込む生活には、他者そのものは存在しない。彼は、他者の生身の肉体を遠ざけながらも、生活を共有し、顕在化した自分を写真に収める。 |