オランダ人の気質といったときに、筆者がすぐに思い出すのは、アメリカの小説家ジョン・アップダイクが書いた長編『カップルズ』のことだ。この小説では、1963年、ターボックスというアメリカの郊外の町を舞台に、10組の夫婦の物語が描かれるのだが、その登場人物のひとりが、オランダ系アメリカ人の建築家なのである。
アップダイクは、この人物の考え方をこのように描写している。「世界のうちでどれだけの区画を所有しているかというオランダ人らしい堅実な意識は、敷地が道路から二百フィート引っ込んでいて、町の中央から一マイル、海から四マイル離れていることですっかり満足していた」。
オランダでこうした気質、価値観が形成されたのは、レンブラントが生きた17世紀前半の時期と考えてよいだろう。この空前の繁栄の時代に、成功を収め、力を持った人々が物質主義的、利己的になっていくのは、容易に察することができる。彼らにとって最も大切なことは、自分がどれだけのものを持っているかということだ。
だから画家に肖像画を描かせる場合でも当然、そこに自分が持っている豊かさが具体的に描きこまれることを求めた。持っているものがすべてなのだから、美化や理想化は必要ない。写真のように現実的であることが重要なのだ。そうした意識がオランダにおける現実主義の一端を担っているのである。
この映画では、ニコラス・トゥルプがその物質主義を象徴する人物として描かれている。罪人の遺体を解剖し、肉体のメカニズムを説明する彼の姿には、不敵な傲慢さが見て取れる。レンブラントは、彼の代表作となる「トゥルプ博士の解剖学講義」を画きながら、このトゥルプという人間に抵抗を覚える。そんなトゥルプは、自分や同じ富裕層の利益を守るために、排他的なコミュニティを作り上げている。
一方、貧しい階層の出であるレンブラントは、何を持っているか、持っていないかで人間を識別せず、常に人間そのものを見ている。ユダヤ人とも旧教の人間とも親しく付き合う。酒場に居合わせたアフリカ系の奴隷の姿に心が動けば、彼らの絵も画く。そして、自分の子供を次々と失うに及んで、彼は生命そのものにいっそう固執するようになる。
そんなレンブラントが富裕層から見放されるのはよくわかる。彼は自分の絵のなかで、人物が所有したり身につけるものを、無視するかのように暗がりのなかに置き、人間だけをとらえようとするからだ。
この映画で、レンブラントが、可愛がっていた猿の死を知らされる場面は実に印象的である。彼は、まだ生きているようなその猿の亡骸をクッションの上にやさしく置き、画いていた肖像画にその姿を加えようとする。仰天した客は憤慨して帰ってしまう。レンブラントにしてみれば、その猿の亡骸には生命があるが、所有しているものによって自分の存在を主張する人間たちは、ほとんど死んでいるに等しいのだ。
また、猿の亡骸に対するレンブラントの姿勢は、罪人の遺体を解剖するトゥルプと対置されていると考えられる。彼らは、この映画のなかで対極に位置している。物質主義の象徴であるトゥルプは、レンブラントから彼が所有するものをすべて奪い取ろうとする。所有するものがすべてである人間にとっては、それは致命的なことである。しかし、レンブラントを本当に追いつめることはできない。
経済的に追いつめられても、支払不能者となっても、彼が求めつづけているのは、物質ではなく生命そのものであるからだ。
新興の市民階級がいち早く力を持ち、空前の繁栄を誇った17世紀前半のオランダでは、人々が経済的には豊かになったものの、物質主義に縛られていた。そんななかでレンブラントは最後まで人間としての自由を求めつづけた。この物質主義と人間をめぐるテーマは現代にそのまま当てはめることができる。
高度消費社会のなかで現代人は、自分自身がどう見えるかという表層ばかりにこだわり、自分自身は忘れてしまっている。この映画は、そんな現代に対するメッセージも込められているに違いない。 |