さらに、この映画の背景となる50〜60年代が郊外化の黄金時代にあたることにも注目しておくべきだろう。戦後の好景気のなかで、中流の白人たちは、過密、騒音、犯罪、人種対立などの問題を抱える都会を離れ、真新しい閑静な郊外住宅地に続々と転居していった。そして都会には、貧しいマイノリティの人々が取り残されることになった。ラビング夫妻がワシントンD.C.の生活で目にしているのは、そんな取り残された人々の世界である。
もちろん南部もずっと農業中心ではなく、北部に近い形態へと変化していくが、社会の本質的な部分まで変わるわけではない。南部人の視点でアメリカを見直すジェームス・M・バーダマンの『ふたつのアメリカ史――南部人から見た真実のアメリカ』では、産業化、都市化が進んだ現代の南部が以下のように表現されている。「南部産業界に特徴的なことだが、労働者は、遠く離れた大都市に移動せずに自分たちの土地にとどまり、家族や友人との交流を大事にしている。つまり、昔の南部人農家の生活とほとんど変わっていないのだ」
こうしたことを踏まえると、ラビング夫妻の物語が南部と深く関わっていることがわかるだろう。プロデューサーたちはそんな映画の監督としてジェフ・ニコルズに白羽の矢を立てた。それは慧眼といえる。彼は南部で生まれ、南部の大学で映画製作を学び、大学時代は南部の現代作家の小説に傾倒し、監督として南部を舞台にした映画を作りつづけている。
それだけにこの映画でも、南部人の価値観や心情がしっかりと掘り下げられている。リチャードが土地を購入したことをミルドレッドに告げる場面では、彼女がその土地のことを「家の近所だし、よく知ってる場所よ」と表現する。彼らにとっては、結婚して実家を出ることになっても、これまでと同じ共同体で暮らすのは当然のことなのだ。また、ミルドレッドが姉に結婚のことを知らせようとする場面では、姉が働く農園が映し出され、そこが農業を基盤とした共同体であることがわかる。
それから、本物のリチャードの風貌や所作にも触れておくべきだろう。ラビング夫妻のドキュメンタリーに登場する弁護士は、最初リチャードがレッドネックに見えて戸惑ったと語っている。レッドネックとは、南部の農村部などに暮らす保守的で無学な白人労働者を意味する。北部の人間には、髪を短く刈り込み、口下手な彼がそのように見えてもおかしくない。この劇映画でも、弁護士と夫妻が初めて対面する場面には、ぎこちない空気が漂っている。ちなみに、ニコルズはあるインタビューで、リチャードの所作が自分の祖父を思い出させ、どんな人間なのかよくわかったと語っている。
しかし、筆者が最も印象に残ったのは、主人公と土地の繋がりをさり気なく強調する巧みな演出だ。先述した土地の購入を告げる場面は、何者かが土を踏みしめて歩く足先だけをとらえたショットから始まり、それがリチャードのものであることがわかる。それからふたりの間で土地をめぐるやりとりがあり、最後に彼がプロポーズする。そんな流れのなかで際立つのは、プロポーズよりも土地との繋がりであり、それはラストとも呼応している。この物語は、子供たちを連れてそこに戻ってきた夫妻が、家を築き始めるところで終わるからだ。
ラビング夫妻にとっての愛や結婚は、土地とそこに建つであろう家と分かち難く結びついていた。この映画には、白人と黒人ではなく、南部人として深く愛し合う男女の姿が細やかに描き出されている。 |