これに対して本作では、スタンの過去が描かれるが、原作のそれとは大きく異なる。本作では、スタンが遺体を床下に置いて、家に火を放って去っていくところから始まる。そして後半、スタンがリリス・リッター博士に出会い、彼女のカウンセリングを受けることで、その状況がより明確になるが、いずれにしてもスタンは、カーニバルの一座に加わる前にすでに一線を越えている。
原作では、スタンの母親が浮気をしていて、スタンはその浮気相手に自分を重ねている。スタンがショービジネスに惹かれるのもその浮気相手と無関係ではない。しかし、ふたりが駆け落ちしたことで状況が一変する。母親が浮気相手に走ったのは父親のせいだと考え、父親を殺したいと思うが、一線を越えることはなく、聖書の文句ばかり引用している”クソじじい”と腐っていくしかなかった。ショービジネスの世界で成功したスタンは、帰郷して、再婚している父親と再会し、読心術師の技を使って、彼の愛犬を殺した父親をじわじわ責め立てる。
スタンが最初から一線を越えているのか、そうではないのか。その違いは他のエピソードとの繋がりも変えてしまうように思う。たとえば、カーニバルの一座に加わったスタンは、まずジーナと親密になり、彼女のパートナーであるピートが持つ手帳に関心を持つ。そんなピートは、スタンがこっそり手渡した酒を飲んで死んでしまう。
それが故意なのか過失なのかは曖昧にされているが、スタンがそれ以前に一線を越えていればその曖昧さはあまり生きてこないのではないか。また、原作では、スタンがリリスのカウンセリングを通して、髪をいじる癖が母親の浮気相手に由来していることなどを見ぬかれ、感情を読まれ、つけ込まれていくが、スタンが一線を越えていると、操る者と操られる者の複雑な駆け引きが単純なものになってしまうように思える。ただ本作の場合、もはや後半はリリスの独壇場になっているともいえる。
本作の豪華なキャストは、スタンを完全に飲み込んでしまうリリスを演じるケイト・ブランシェットを筆頭に、主人公を除いてみなはまっているが、スタンのキャラクターだけがぼやけ、浮いてしまうのは、ブラッドリー・クーパーの演技のせいだけではないだろう。 |