『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』の素材は、マイケルの個人的な記録として撮影された舞台裏の映像やステージで使うはずだった映像だ。しかし、ただの寄せ集めではなく、最初から目的を持って作られたかのような独立した作品になっている。
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壮大なスケールで映像空間とステージの境界を消し去る仕掛けと綿密にしてダイナミックなリハーサルは、永遠に完成を見ることがないコンサートに対する想像力をかき立てることだろう。だが筆者は、別の意味でも想像力を刺激された。
映画のなかに誰かが「歴史の一部になれる」と語る場面があるが、それはどんな歴史なのか。おそらく大事件を意味したかっただけなのだろうが、もっと深い歴史が筆者の脳裏をよぎる。コンサートと映画の監督を務めたケニー・オルテガの発言だったと思うが、マイケルは「すべてをひとりでこなすいわば昔風のエンタテイナーだ」という言葉はなかなか興味深い。
アメリカの大衆芸能は、白人が顔を黒塗りにするミンストレル・ショー から始まり、人種差別と絡み合いながら多様な進化を遂げ、世界の中心になった。今ではそんな歴史と表現者としての自己を意識して結びつけられるのは、もしかするとボブ・ディランくらいかもしれない。
ディランのアルバム『ラブ・アンド・セフト』のタイトルは、エリック・ロットが書いたミンストレル・ショーの研究書『Love and Theft』からの引用だった。ディランが作った映画『ボブ・ディランの頭のなか』は、「Masked and Anonymous」というきわめて暗示的な原題が付けられていて、そのなかにはミンストレル・ショーに由来する黒塗りのバンジョー弾き(エド・ハリスが演じている)が登場する。トッド・ヘインズ 監督は『アイム・ノット・ゼア』 で、“マスク”を通してディランに迫るという実に鋭いアプローチを見せた。
遠い昔に一世を風靡したユダヤ系の芸人アル・ジョルスンは、顔を黒塗りにすると別人に変貌し、ステージで尋常ではないパワーを放ち、観客を釘付けにしたといわれる。(ジョルスンについては、「ウディ・アレン――現実と虚構がせめぎあうアレンの世界」 のなかでも触れている)
『THIS IS IT』には、過酷なオーディションを勝ち抜いた有能なダンサーたちが登場するが、彼らとマイケルとの決定的な違いは、マイケルが自己を解放し、誰にも真似できない身体感覚を獲得するためのマスクを持っていたということだろう。それは訓練して得られるものではなく、内面に深く根ざしている。
しかもマイケルは、バンドやダンサー、LEDスクリーンや3D映像、光を自在に操れる衣装(映像特典)といったハイテクを駆使することによって、その身体感覚を極限まで拡張しようとしていた。