トッド・ヘインズ 監督の『アイム・ノット・ゼア』では、ボブ・ディランが6つの顔を持ち、6人の俳優によって演じ分けられる。そのなかには、黒人俳優のマーカス・カール・フランクリンや女優のケイト・ブランシェットも含まれている。
しかし、厳密には彼らはボブ・ディランではない。それぞれにジャックやジュード、ウディ、ビリーといった異なる名前を持っている。そして“アイム・ノット・ゼア”というタイトルが物語るように、ボブ・ディランはそこにはいない。
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ヘインズの『ベルベット・ゴールドマイン』 (98)では、70年代にゲイであることを公言して注目を浴びたロック界のカリスマが、80年代には保守化した社会に受け入れられるようなスターに生まれ変わっている。50年代のサバービアを舞台にした『エデンより彼方に』 (02)では、黒人に共感を覚えるヒロインが共同体のなかで孤立し、彼女にゲイであることを告白した夫が、“病気”を治すために精神科医にかかる。
正常と異常、正統と異端、中心と周縁の境界や意味や価値は、時代や社会、そして個人の感性によって著しく変化し、集団や個人のなかにアイデンティティや虚像と実像をめぐるせめぎ合いを生み出す。そんなテーマを斬新な視点と映像表現で追求してきたヘインズにとって、ボブ・ディランは格好の題材といえる。
ディランに関して筆者が注目したいのは、アメリカの伝統的な大衆芸能、なかでも白人が顔を黒塗りにして黒人を真似るミンストレル・ショー との繋がりだ。彼のアルバム『ラブ・アンド・セフト』は、ミンストレル・ショーの芸人となった白人労働者の在り様を、人種や階層、セクシュアリティなどの多様な視点から掘り下げたエリック・ロットの研究書と同じタイトルだった。
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それはおそらく偶然ではないだろう。ディラン自身が作った映画『ボブ・ディランの頭のなか』は、「Masked and Anonymous」というきわめて暗示的な原題がつけられ、エド・ハリス扮するミンストレル・ショーのバンジョー奏者の亡霊が登場し、ディラン扮するジャック・フェイトが、ミンストレル・ショーから生まれた曲<Dixie>を演奏する。
ミンストレル・ショーの黒塗りのマスクは、枠にはめられた感性を解き放つのに絶大な効果を発揮した。ユダヤ系のアル・ジョルスンは、ユダヤ教会のカンター(礼拝式の独唱者)だった父親から、カンターを引き継ぐための音楽教育を受けた。そんな彼が芸人として感性を解き放つためには、マスクが必要だった。黒塗りのメイクをすると憂いのある素顔は、一瞬にして生気に満ちた表情に変わり、ステージでは別人のように感情をほとばしらせ、成功を収めた。
ボブ・ディランは、明らかにそんなマスクの力を自覚し、マスクを通して次々に異なるアイデンティティを生み出し、独自の道を歩んできた。ヘインズはそんな繋がりも意識して、同じように暗示的なタイトルを持つこの映画を作り上げている。ボブ・ディランは、詩人や伝道師、放浪者、ロックスター、さらには人種ややセクシュアリティも越える多様なマスクのなかに潜んでいるのだ。