このアンディの立場は、トゥルーマンのそれと対比してみると興味深い。トゥルーマンの場合は、本当に家中に隠しカメラがあり、生まれたときから本人が知らないうちにずっと見られつづけている。しかも彼を主人公にしたシットコムによって、国民的なスターにもなっている。シットコム的な世界しか知らない彼は、自分という現実をホーム・ドラマのように生き、
そのことが、不毛な日常を生きる視聴者に癒しをもたらし、共感を呼んでいるからだ。
そのトゥルーマンとアンディは、ともにその空虚なシットコムの世界から脱出しようとするが、その行為は彼らをまったく対照的な地平へと追いやる。
トゥルーマンが真実に迫るとき、視聴者の共感を呼んだ現実は、彼らを抑圧してきた虚構に変わる。それゆえ視聴者は脱出を試みる彼に声援を送る。その脱出とは見られつづけることから解放されることを意味する。その瞬間、彼は現実を手にすることができる。
アンディもまた、視聴者や観客に対して、現実や自己への覚醒の糸口となる抑圧を生みだすという意味では、トゥルーマンに通じている。しかし芸人である彼は、見られることによってしかそれを成しえない。そこで彼は、TVドラマのなかで台本にない喧嘩を仕掛けて、役者たちと取っ組み合いを繰り広げたり、プロレスで観客や視聴者を挑発する。
その結果、確かに彼はシットコムの世界から抜けだす。しかし、抑圧を生みだそうとすればするほど、彼という存在そのものが見られることの深みにはまり、虚構へと追いやられていく。メディアや視聴者は、抑圧を次第にやらせや刺激として消費しだすからだ。そして彼が癌に冒されても、家族すらそれを信じることができなくなるのだ。
この映画はアンディが、スクリーンの向こうから観客であるわれわれに話しかけるところから始まる。彼は、映像のトリックを使って彼のユーモアを理解しない観客を追い払い、スクリーンの隅から親しげにわれわれに話しかけてくる。そして自分の葬儀の場でも彼は映像を通して参列者に語りかける。そんな向こう側の住人のイメージは、
彼がどこかで生きているという信仰に繋がるよりも、虚構に包囲された世界のなかでひとり現実を生きる”トゥルーマン・ショー”の主人公を見ているような錯覚をもたらす。
アンディが繰り出す抑圧を視聴者が徹底的に消費するとき、自分でも気づかないうちに彼の人生はまさに”アンディ・カフマン・ショー”と化す。この現代を象徴する深い孤立感を自然に表現できるのは、おそらくジム・キャリーだけだろう。 |