イーストウッドの近作では、そうした図式や設定が影をひそめていたが、本作の企画が40年前から検討されていたものだとわかると、復活してきたもの頷ける。すぐに企画が通っていれば、本作は『センチメンタル・アドベンチャー』よりも前の作品になっていたかもしれないが、その物語はいま映画化されるのに相応しい内容になっている。マイクが最後にたどり着く場所が、これまでイーストウッドが積み重ねてきた旅の終着点にも見え、感慨を覚えるからだ。
さらに本作は、いま映画化されることで、違う意味でも魅力を放っているように思える。筆者が本作とぜひ比較してみたいのが、奇しくも日本では同じ日に公開になるトム・マッカーシー監督の『スティルウォーター』(21)だ。2作品には興味深い接点がある。
『スティルウォーター』の主人公であるオクラホマ州スティルウォーター出身のビルは、フランスのマルセイユを訪れ、そこで服役している娘アリソンの無実を証明するために奔走するうちに、偶然の出会いから彼に協力するシングルマザーのヴィルジニーとその娘マヤと家族のような関係を築いていく。
本作のマイクと少年ラフォは、メキシコ警察やラフォの母親が放った追手から逃げ回るうちにたまたま立ち寄った村で、酒場を営む女主人マルタに助けられる。彼女は4人の孫娘たちを抱える未亡人で、マイクは彼女たちと次第に家族のような関係を築いていく。
ビルは娘を救うために真犯人を必死に追いかける。マイクはラフォを彼の父親のもとに送り届けなければならない。では、彼らがそれぞれに目的を果たすことと、異国の地で生まれた家族のような関係は果たして両立するのか。そこで2作品は見事に対照的な結末を迎える。
その結末に関して頭に入れておきたいのは、トム・マッカーシーの場合は、トランプ支持層のアメリカ人を主人公に据え、彼を突き動かす感情を掘り下げていることだ。一方、本作では”マッチョ”がキーワードになっていることに注目すべきだろう。それらを踏まえておくと、『スティルウォーター』とは対照的な本作の結末が別の意味で興味深く思えてくるのではないだろうか。 |