そしてもうひとつ、本作で重要な役割を果たしているのが、原作に対するクレットンのアプローチだ。本作では、原作の内容に頼るだけでなく、ブライアンや関係者にインタビューを行い、人物や背景などにかなりの肉付けが施されている。
もちろん原作に忠実に映画化したとしても、人種差別や冤罪の実態に迫る見応えのあるドラマになっていただろう。刑務所の死刑囚棟に押し込まれ、完全に希望を失っているウォルターと閉鎖的な南部の世界に飛び込み、圧倒的に不利な立場で不平等を正そうとするブライアン。彼らのなかには、怒りや絶望、恐れ、哀しみが渦巻いているが、安易に感情をむき出しにすることもできない。フォックスとジョーダンは、抑制された迫真の演技でそんな息苦しさや複雑な心理を表現している。
しかし本作は、彼らを取り巻く人物たちにも視野を広げ、様々な感情が絡み合っていくヒューマンドラマになっている。クレットンは、デビュー作『ヒップスター』から一貫して家族というテーマを掘り下げてきた。それが文字通りの家族だけではなく、状況によって形作られる家族になることもある。そんなクレットンの関心は、本作にも反映されている。しかも、かなり細部にまで。
筆者が注目したいのは、重要な証言をしたマイヤーズが、それを覆すまでの過程だ。そこには家族に関わる独自の視点が加味されている。ブライアンが最初にマイヤーズと面会したとき、彼は事件から話を逸らすために自分の子供のことを語りだすが、話の流れでウォルターにも3人の子供がいることを知る。その事実が彼の心理にどんな影響を及ぼしていたのかは、やがて法廷で明らかになる。彼は証言を覆した後で、「彼を早く子供たちの所へ帰してやってくれ」と語るからだ。
それは些細なエピソードのように見えるが、主人公たちのドラマとも絡み合っている。ウォルターは、ブライアンが彼の家族に会いに行ったことを知って態度を軟化させる。彼は独房のなかで写真を見ながら家族を想うことで、前に進む意思を強くする。
クレットンは、家族のエピソードをさり気なくちりばめ、登場人物の誰もが親であり子であることを示唆する。本作の冒頭には、南部に旅立つブライアンと母親の会話が挿入される。ブライアンとともにEJIを立ち上げるエバは、原作では実務能力に長けた女性という印象を受けるが、本作では、ブレない強い母親でもある。自分の家族への脅迫があっても、彼女は「息子に思われたくない。ママはビビッて正しい道をあきらめたと」と語る。
さらに、主人公たちと彼らを取り巻く人物たちの関係も家族を想起させる。ウォルターとブライアンは、歪んだ司法や根深い偏見に前進を阻まれ、打ちのめされる。だが、死刑囚棟では、ウォルターとハーブ、アンソニーの3人がお互いを支えあい、苦悩するブライアンにはエバが寄り添う。
そんな彼らのドラマにはある共通点がある。そこには、物理的あるいは精神的に彼らがとても正面から向き合って言葉を交わすことができないほど深刻な状況がある。だから彼らは、横に並んで座るか、目を背けるようにして、相手に想いを伝え、支えようとする。そうしたやりとりからは、まさしく状況が形作る家族の深い絆が浮かび上がってくる。
クレットンは、原作に隠れた家族の関係を掘り下げることで、異なる視点から差別が生む冤罪の重さを描き出している。 |