SF映画『クローン』は、まず何よりもP・K・ディック作品の映画化に注目が集まることだろう。カルト的な人気を持つ作家だけに、それはわからないではない。原作である「にせもの」の主人公は、ある日突然、外宇宙人が送り込んだロボットだと疑われ、追われるはめになる。爆弾を内蔵するロボットは、人工的なにせの記憶を植え付けられているため、主人公がいくら嫌疑を否定しても受け入れられない。
本物と偽物の識別が困難なところから、現実が揺らいでいくという、いかにもディックらしいテーマがあり、短編としてもよくまとまっている。しかしこの作品くらいのレベルまでなら、いまの現実や人々の感覚はディックに追いついている。そういう意味では、筆者はディックの世界を云々するよりも、この短編の世界を視覚化しているスタッフ、キャストの方により興味をそそられる。
まず監督のゲイリー・フレダーは、デビュー作の『デンバーに死す時』が、ひねりの効いたオフビートなギャングもので、続く『コレクター』が、美しく知的な娘たちを拉致する猟奇的な犯罪者を追うサイコ・スリラー、そして今回がSFと、作品の題材やテーマは一見脈絡がない。自ら脚本を手がけることもなく、作家性よりは職人肌の監督と思いたくなるところだが、よくよく見れば一貫した視点が浮かび上がってくる。
『デンバーに死す時』では、主人公ジミーを中心とする5人の元ギャングが、致命的なドジを踏んでしまったために、かつてのボスから死の制裁を受けるか、デンバーを離れるかの二者択一を迫られる。そこで普通なら逃げ出すものだが、彼らは制裁を受け入れていく。この映画のポイントは、堅気になったジミーが営んでいる商売だ。それは、余命いくばくもない老人たちが家族に残したいと思うメッセージを録画する“死後の助言”というビデオの制作である。
結果的にジミーたちも、その老人たちと同じ立場に追い込まれる。そこで興味深いのが、ボスとジミーの生き方の違いである。もはや身体の自由も奪われ、車椅子の身であるボスは、あらゆる手段を使って生に執着するが、何も残せない。一方ジミーは、制裁までの限られた時間の中で人生を見つめなおし、彼自身の死後の助言が意味を持つような未来を切り開く。つまり彼は、力の絶対的な制裁を超越するのである。
『コレクター』に登場する猟奇的な犯罪者は、拉致した娘たちを私物化し、彼女たちの人生を支配しようとする。アメリカ南部を舞台にしたこのドラマで、この犯罪者を追い詰めるのは、地元警察でもFBIでもなく、ワシントンDCからやって来たベテランの刑事と地元の女性外科医である。
なぜなら、刑事は姪が誘拐されたからであり、外科医は彼女自身も拉致され、自分だけが命懸けの脱出に成功したからだ。しかし、それぞれの内面にはこの事件に限定されない別の感情が潜んでいる。刑事は南部では黒人の被害者に対して真剣な捜査が行われないことも危惧し、外科医は格闘技のトレーニングを積んでいるのだ。
2本の映画は、スタイルも設定もまったく異なるが、ギャングの世界であれ、人種やジェンダーの領域であれ、そこには力による支配と被支配の図式が浮かびあがる。この監督は、そうした主題に関心を持ち、権力の支配に対する精神的、肉体的な自由を描きだそうとする。それはもちろん『クローン』にも当てはまる。クローンの疑惑をかけられたスペンサーは、圧倒的な権力の支配のもとで、偽物として抹殺されるか、人間であることを証明するかの二者択一を迫られる。 |