クローン
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(2001) on IMDb


2001年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ/ドルビーSR・SRD・SDDS
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(初出:『クローン』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

ディックの映画化に反映されたスタッフの感性

 

 SF映画『クローン』は、まず何よりもP・K・ディック作品の映画化に注目が集まることだろう。カルト的な人気を持つ作家だけに、それはわからないではない。原作である「にせもの」の主人公は、ある日突然、外宇宙人が送り込んだロボットだと疑われ、追われるはめになる。爆弾を内蔵するロボットは、人工的なにせの記憶を植え付けられているため、主人公がいくら嫌疑を否定しても受け入れられない。

 本物と偽物の識別が困難なところから、現実が揺らいでいくという、いかにもディックらしいテーマがあり、短編としてもよくまとまっている。しかしこの作品くらいのレベルまでなら、いまの現実や人々の感覚はディックに追いついている。そういう意味では、筆者はディックの世界を云々するよりも、この短編の世界を視覚化しているスタッフ、キャストの方により興味をそそられる。

 まず監督のゲイリー・フレダーは、デビュー作の『デンバーに死す時』が、ひねりの効いたオフビートなギャングもので、続く『コレクター』が、美しく知的な娘たちを拉致する猟奇的な犯罪者を追うサイコ・スリラー、そして今回がSFと、作品の題材やテーマは一見脈絡がない。自ら脚本を手がけることもなく、作家性よりは職人肌の監督と思いたくなるところだが、よくよく見れば一貫した視点が浮かび上がってくる。

 『デンバーに死す時』では、主人公ジミーを中心とする5人の元ギャングが、致命的なドジを踏んでしまったために、かつてのボスから死の制裁を受けるか、デンバーを離れるかの二者択一を迫られる。そこで普通なら逃げ出すものだが、彼らは制裁を受け入れていく。この映画のポイントは、堅気になったジミーが営んでいる商売だ。それは、余命いくばくもない老人たちが家族に残したいと思うメッセージを録画する“死後の助言”というビデオの制作である。

 結果的にジミーたちも、その老人たちと同じ立場に追い込まれる。そこで興味深いのが、ボスとジミーの生き方の違いである。もはや身体の自由も奪われ、車椅子の身であるボスは、あらゆる手段を使って生に執着するが、何も残せない。一方ジミーは、制裁までの限られた時間の中で人生を見つめなおし、彼自身の死後の助言が意味を持つような未来を切り開く。つまり彼は、力の絶対的な制裁を超越するのである。

 『コレクター』に登場する猟奇的な犯罪者は、拉致した娘たちを私物化し、彼女たちの人生を支配しようとする。アメリカ南部を舞台にしたこのドラマで、この犯罪者を追い詰めるのは、地元警察でもFBIでもなく、ワシントンDCからやって来たベテランの刑事と地元の女性外科医である。

 なぜなら、刑事は姪が誘拐されたからであり、外科医は彼女自身も拉致され、自分だけが命懸けの脱出に成功したからだ。しかし、それぞれの内面にはこの事件に限定されない別の感情が潜んでいる。刑事は南部では黒人の被害者に対して真剣な捜査が行われないことも危惧し、外科医は格闘技のトレーニングを積んでいるのだ。

 2本の映画は、スタイルも設定もまったく異なるが、ギャングの世界であれ、人種やジェンダーの領域であれ、そこには力による支配と被支配の図式が浮かびあがる。この監督は、そうした主題に関心を持ち、権力の支配に対する精神的、肉体的な自由を描きだそうとする。それはもちろん『クローン』にも当てはまる。クローンの疑惑をかけられたスペンサーは、圧倒的な権力の支配のもとで、偽物として抹殺されるか、人間であることを証明するかの二者択一を迫られる。


◆スタッフ◆

監督 ゲイリー・フレダー
Gary Fleder
原作 フィリップ・K・ディック
Philip K. Dick
脚本 キャロライン・ケース、アーレン・クルーガー/ デイヴィッド・トゥーヒー
Caroline Case, Ehren Kruger/ David Twohy
撮影 ロバート・エルスウィット
Robert Elswit
編集 アルメン・ミナジャン/ ボブ・ダックゼイ
Armen Minasian/ Bob Ducsay
音楽 マーク・アイシャム
Mark Isham

◆キャスト◆

スペンサー ゲイリー・シニーズ
Gary Sinise
マヤ マデリーン・ストウ
Madeleine Stowe
ハサウェイ ヴィンセント・ドノフリオ
Vincent D’Onofrio
ネルソン トニー・シャルホウブ
Tony Shalhoub
ケール メキー・ファイファー
Mekhi Phifer
(配給:ギャガ・ヒューマックス)
 


 そして、スタッフでもうひとり見逃せないのが、脚本に名前を連ねるアーレン・クルーガーの存在だ。この映画の脚色では、次の2点がポイントになる。ひとつは、スペンサーの妻のキャラクターを膨らませることによって、結末のどんでん返しを原作と異なるものにしていること。もうひとつは、ほとんどドームのなかで物語が展開する原作に対して、ドームの外部である“ゾーン”を具体化することによって、ケールというキャラクターを創造し、第三者的な視点を導入していることだ。

 このポイントはクルーガーの出世作である『隣人は静かに笑う』に通じるものがある。その脚本では、爆破テロが起こったセントルイスという都市と主人公の教授が住む一見安全に見える郊外住宅地の関係から、皮肉なドラマが紡ぎ出される。教授は単独犯によるテロという発表に疑問を覚え、隠れた共犯者が再度犯行に及ぶ危険を警告する。ところがそんな教授は、郊外住宅地という見せかけの安全に足元をすくわれ、気づかぬうちにテロリストへと改造されていく。まるで爆弾を抱えたクローン人間のように。

 『クローン』はこの『隣人は静かに笑う』の見事な裏返しである。この未来世界では都市と郊外が逆転している。ドームによって安全が確保された都市には特権階級が暮らし、弱者は外部のゾーンに追いやられている。エリートからいきなりクローン人間に転落したスペンサーは、教授とは逆に危険なゾーンに住むケールに救われ、疑惑を晴らすかに見える。しかし、最後に驚愕の真相が待ち受けている。

 ゲイリー・シニーズとヴィンセント・ドノフリオは、『隣人は静かに笑う』のジェフ・ブリッジスとティム・ロビンスのような歪みをもった対決を繰り広げる。嫌疑をかけられるシニーズは、その表情に苦悩を滲ませ、ひらすら人間臭い。一方、人間とクローンの見極めに誤りがあったとしても、断固として使命を遂行していこうとするドノフリオは狂気をはらんでいる。

 そして忘れてならないのが、ケールに扮するメキー・ファイファーの存在だ。この映画が、スペンサーと行動をともにした彼の視点で終わるのは大きな意味を持つ。兵器を開発していることに後ろめたさを感じていたスペンサーは、ケールとの関係を通していくらかでも救われることになる。ドラマはあくまでクローン疑惑の真相に向かって突き進むが、その真相を越えたところでスペンサーを思うケールの存在が、独特の余韻を残すのだ。


(upload:2002/01/28)
 

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