そして、事件に導かれるように出会い、ゲルノンの闇に分け入っていくふたりの刑事は、この不適正者の魅力を漂わせている。ニーマンスは、一匹狼で屈強な男だが、犬には手も足も出ない。
マックスは抜群の行動力を持っているが、キレて暴走することもある。そんな彼らの人間性が、”深紅なる川の支配者”の王国に揺さぶりをかけていく。
そういうところにこそ、監督マチュー・カソヴィッツのこだわりがある。これまで彼は、作品を発表するたびに、現代社会を異なるアプローチで描き出してきた。長編デビュー作の『カフェ・オ・レ』では、人種が異なる男女の奇妙な三角関係を、ひねりの効いたコメディ・タッチで描いた。
カンヌ映画祭の監督賞に輝いた『憎しみ』では、移民労働者の家庭に育った三人の若者たちが体験する二十四時間の出来事を、モノクロの非情なリアリズムで描いた。そして、『アサシンズ』では、世代の異なる三人の殺し屋たちの絆を、リアリズムとは対照的な、
テレビやゲームの影響を反映した毒々しく過剰な映像で描いてみせた。
そんなカソヴィッツ作品を知る人にとって、この新作は、一見かなり異質な作品に見えることだろう。これまでオリジナルのストーリーを監督してきた彼が、ベストセラー小説を映画化し、ミステリー、ホラー、スリラー、アクションに満ちた娯楽大作を作り上げたからだ。しかしながらこの映画は、先述した「ガタカ」と共鳴する要素を通して、これまでのカソヴィッツ作品に連なる作品になっている。
カソヴィッツの魅力は、人間がいかに環境に左右され、支配されていくのかを、冷静にとらえる眼差しにある。たとえば、『カフェ・オ・レ』や『憎しみ』から浮かび上がる人種というテーマ。私たちは人種というと、そこに最初から明確な境界線が引かれているように思いがちになる。しかしカソヴィッツは、民族や血ではなく、まず何よりも環境が、人種や人種に絡む問題を生みだすと考える。
『カフェ・オ・レ』で同じ女性を追いかけるふたりの若者のコントラストは、それをよく物語っている。家が貧しいユダヤ系のフェリックスは、ヒップホップなどブラック・カルチャーにどっぷりと漬かっている。一方、外交官を父に持つアフリカ系のジャマルは、白人社会に溶け込んでいる。
そんな彼らの立場の転倒は、警官とのいざこざで最高潮に達する。ジャマルのことを特別な目で見る警官が彼を連行しようとしたとき、ここぞとばかりに警官に食ってかかるのはフェリックスで、ジャマルの方は逆にそんなフェリックスに向かって、”スパイク・リー”を気取るなと言って腹を立てるのだ。
彼らはそんなふうに環境に振り回されながら、自分に目覚めていく。
『憎しみ』でも異なる視点から環境と人種の関係が描かれる。三人の主人公のうち、ユダヤ系とアラブ系の若者は、バンリュー(低家賃住宅)に押し込まれていることや警察の横暴に不満を募らせ、怒りが爆発しかけている。これに対してアフリカ系の若者は彼らの衝動を抑えようとする。なぜなら彼は人種差別の歴史を踏まえ、世の中を冷静に見ているからだ。ところが、環境がそんな彼の冷静さを奪うとき、他のふたりの衝動的な怒りとは比較にならない深い憎しみが行動に変わる。
現代社会では、人間は民族や血そのものよりも環境に縛られている。その環境が血を明確な境界に変え、悲劇を生む。『クリムゾン・リバー』の”深紅なる川の支配者”には、環境を通して優れた血という幻想を作りだす邪悪な世界を意味している。設定は「憎しみ」とは正反対だが、この映画でも、環境が人間を支配し、悲劇を招き寄せる。そして、人間性を無視したこの邪悪な世界は、深紅とは対照的な白に象徴される自然の巨大な力によって罰せられることになるのである。 |