『地球は女で回ってる』の主人公は売れっ子の小説家だが、現実の世界では周囲から孤立しかけている。というのも彼は、別れた妻たち、愛人、友人、家族のプライバシーをほとんどそのまま滑稽な小説の題材にしているからだ。映画はそんな主人公の現実の世界と虚構の世界を、別のキャストを使って対置するように描く。
彼は現実を食い物にしながら、彼が創造した人物たちとともに、それがまるで現実であるかのように虚構の世界を生きている。つまり、彼は現実逃避していると同時に、彼が逃避した虚構の世界が一人歩きを始め、リアリティにおいて現実を越えてしまうのである。
『恋に落ちる確率』では、現実と虚構がさらに複雑に入り組み、境界を曖昧にし、そんな空間を通して、個人の主観的な世界や、現実や虚構にかかわらず映画という表現が生み出してしまうリアリティというものが掘り下げられていく。
この映画には、念入りな前置きや仕掛けがある。まず原題は、“Reconstruction”である。『地球は女で回ってる』がDeconstruct(脱構築)されるのに対して、こちらでは世界がReconstruct(再構築)される。導入部には、両手の間で煙草が宙に浮くマジックがあり、「これは映画であり、作り話だ」という断りがあり、小説家アウグストによる自分自身も含めた四人の登場人物の紹介がある。彼は本編でも、このドラマを思わせる小説を書き進めていく。そして、アイメとシモーヌは別人に見えるが、実は一人二役なのだ。
そうした仕掛けは、たとえ奇妙なことが起きても、そこには何の境界もなく、すべては同じ次元にあることを示唆する。そんな世界では、男女の出会いや関係が、始まりと終わりやお互いを知る知らないをめぐって転倒していく。アレックスとアイメの再会が、彼女にとっては突然、最初の出会いに変わり、アレックスが彼を知らないシモーヌに別れを告げることが、始まりの空気を醸しだす。こうして彼は、繰り返される最初の出会いや最初のキスに誘惑、翻弄されていく。
アレックスはアイメに、人が分岐点に立つとき、留まるか、飛びだす以外に、本人にしかわからない第三の選択肢があるとしたり顔で語っていたが、彼はまさにそんな本人にしかわからない心の痛みを体験することになる。クリストファー・ボー監督は、アレンとは異なるアプローチで、個人の主観的な世界、そして映画が生み出すリアリティを掘り下げ、独自の映像空間を切り拓いている。 |