エンジニアのクライドは、突然自宅に押し入ってきた二人組の強盗犯に腹部を刺され、妻と娘を殺害されてしまう。犯人は逮捕されるが、フィラデルフィアで飛び抜けた有罪率を誇る敏腕検事ニックは、証拠が十分ではないと判断。主犯格の男に極刑を求めず司法取引を行い、数年の禁固刑の有罪を勝ち取る。
裁判からあっさり10年が経過し、犯人たちが残酷な方法であっさりと殺害され、クライドが拘束される。その後にいったいどんな物語が展開していくのか。
このような事件から始まる物語は、“復讐”か“喪”へと向かう。アメリカ映画であれば圧倒的に復讐だが、この映画は単なる復讐ではなく、さらにその先に踏み出す。
実はクライドはあるスペシャリストで、10年間を費やして綿密な計画を練り、刑務所のなかから司法取引に関わった人間たちを次々と殺害していく。クライドはあらかじめ至るところに罠を仕掛け、牢のなかからコントロールする(ように見える)。
しかし、彼の行動は復讐や報復とは違うのではないか。クライドの参考書としてクラウゼヴィッツの『戦争論』が引用されるが、それは敵の力の中心に戦力を集中するという戦略だけを意味するのではなく、「戦争は政治の継続」が意識されているからだだろう。
この映画の結末がどこか割り切れない印象を与えるのは、クライドとニックの土俵がずれているからだ。ニックは政治という土俵には立てない。法廷を離れれば、ある意味で無力ともいえる家庭の夫や父親に過ぎない。
ちなみにこの映画は、復讐を超えた政治に向かうだけでなく、わずかだが喪というもうひとつの方向にも向かう。逃げ場のない閉ざされた空間、残された数十秒のなかで、クラウドは死者と向き合うことになるからだ。 |