そして、暴力が放たれる方向も対照的だ。グレン・リッジの場合は、学校における生徒たちのヒエラルキーの頂点とその周辺に位置する少年たちが、最も弱い立場の人間をもてあそぶ。これに対して、落ちこぼれの男女がいじめっ子を殺害する南フロリダの事件では、集団の中心がはっきりしない。中心がないからこそそのような事件が起こったともいえる。
ラリー・クラークが監督した『ブリー』では、そんな中心を欠いた集団が掘り下げられていると見ることもできる。この映画でまず印象に残るのは、事件の現場である南フロリダにロケしながら、郊外全体を見渡すようなショットが排除されているということだ。
原作では、まず土地についての細かな説明から始まり、そこに人物が見えてくるが、映画では、冒頭からカメラはほとんど登場人物たちの行動だけをとらえ、郊外はその背後に映り込むに過ぎない。若者たちには、空虚な郊外に対する視野などまったくない。彼らの頭にあるのは、ドラッグやセックス、ゲームやサーフィンで目の前の世界から逃避することだけなのだ。しかしそれでも、視野の外に追いやったはずの郊外から逃れることはできない。
この映画の登場人物は、誰もが郊外にからめとられ、身動きできなくなっていく。リサの母親は、「ブロンクスにいた時にはいい家族だったが、フロリダにきてバラバラになった」と語るように現実を理解しているが、その表情にはもはや諦観しかない。ボビーは手を洗うこととゲイのビデオにとり憑かれている。リサの思いつきは、マーティやアリへ、アリからドニーやヘザーへと伝染していく。リサと仲間たちは、ピザハットのテーブル席や彼女の部屋で、子供じみたアイデアを出し合いながら、自分たちを呪縛していく。
そして、あまりにも皮肉かつ悲劇的なのが、彼らとカーフマンのやりとりだろう。リサたちが彼を取り巻き、カメラがぐるぐる回りだす場面では、カーフマンの引っ込みがつかなくなり、彼らはギャングをうまく口説き落とした気でいる。しかし、ドラマが物語るようにカーフマンが仕切っているのは子供ばかりで、とてもギャングとはいえない。現実逃避するリサたちが、そんな人間に頼ったとき、彼らの運命はすでに決まってしまっているのだ。 |