BULLY ブリー
BULLY


2001年/アメリカ/カラー/111分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
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(初出:『BULLY ブリー』劇場用パンフレット、加筆)

楽園願望が幻想と化した郊外と
中心を欠いた集団の暴力

 映画『ブリー』の原作であるジム・シュッツのノンフィクション『なぜ、いじめっ子は殺されたのか?』を読んだのは、ずいぶん前のことだが、強く印象に残っている。それは、同じように郊外住宅地で十代の若者が引き起こした事件を扱い、奇しくも同じ97年に出たバーナード・レフコヴィッツの『Our Guys』も読み、共通点や相違点がいろいろ気になったからでもある。

 『Our Guys』が扱う事件は、89年にニュージャージーにある郊外の町グレン・リッジで起こった。加害者は、地元高校のアメフトや野球のチームで活躍し、町中に名前を知られた生徒たち。彼らは運動場で汗を流した後、そこで出会った近所の少女をリーダー格の生徒の家に誘い、野球の練習用のバットなどでレイプしたり、マスターベーションを手伝わせるなどした。少女には軽度の知的障害があり、少年たちは無論それを知っていた。

 ふたつの事件そのものから見えてくる郊外の若者の利己的な行動や現実感の希薄さなどは、明らかに共通している。まず、どちらの事件も、被害者と加害者は同じ世界を共有してきた幼なじみである。犯罪は、計画的というにはあまりにも稚拙である。思いつきに集団がずるずると引き込まれ、戸惑いがあるのに団結しているかのような幻想が生まれ、後戻りができなくなるのだ。

 グレン・リッジの場合には、最初は現場に13人の少年たちがいたが、そのうち6人は境界の手前で幻想から目覚め、その場を後にしている。南フロリダの場合には、現場でひとりが境界を越えた瞬間から暴力的な衝動が爆発し、集団はバラバラになっていく。そしてどちらの事件も、後に加害者から情報が漏れだし、事件が表面化することになるのだ。

 しかし、より興味深いのは相違点だ。たとえば、郊外といってもその環境には開きがある。グレン・リッジは、完璧な楽園を目指すアッパーミドルの保守的なコミュニティで、その閉鎖性から生まれる歪みが事件に繋がる。『なぜ、いじめっ子は殺されたのか?』の南フロリダの郊外も、70年代には「アメリカの中流家庭にとって望みうる最高の夢だった」が、いまでは荒廃が進み、ドラッグや拳銃、暴力がはびこりつつある。


◆スタッフ◆
 
監督   ラリー・クラーク
Larry Clark
原作 ジム・シュッツ
Jim Schutze
脚本 ザカリー・ロング、ロジャー・プリス
Zachary Long, Roger Pullis
撮影 スティーヴ・ゲイナー
Steve Gainer
編集 アンドリュー・ハフィッツ
Andrew Hafitz
 
◆キャスト◆
 
マーティ   ブラッド・レンフロ
Brad Renfro
ボビー ニック・スタール
Nick Stahl
アリ) ビジュー・フィリップス
Bijou Phillips
リサ レイチェル・マイナー
Rachel Miner
ドニー マイケル・ピット
Michael Pitt
カーフマン レオ・フィッツパトリック
Leo Fitzpatrick
ヘザー ケリ・ガーナー
Kelli Garner
デレク ダニエル・フランゼーゼ
Daniel Franzese
-
(配給:アミューズピクチャーズ)
 


 そして、暴力が放たれる方向も対照的だ。グレン・リッジの場合は、学校における生徒たちのヒエラルキーの頂点とその周辺に位置する少年たちが、最も弱い立場の人間をもてあそぶ。これに対して、落ちこぼれの男女がいじめっ子を殺害する南フロリダの事件では、集団の中心がはっきりしない。中心がないからこそそのような事件が起こったともいえる。

 ラリー・クラークが監督した『ブリー』では、そんな中心を欠いた集団が掘り下げられていると見ることもできる。この映画でまず印象に残るのは、事件の現場である南フロリダにロケしながら、郊外全体を見渡すようなショットが排除されているということだ。

 原作では、まず土地についての細かな説明から始まり、そこに人物が見えてくるが、映画では、冒頭からカメラはほとんど登場人物たちの行動だけをとらえ、郊外はその背後に映り込むに過ぎない。若者たちには、空虚な郊外に対する視野などまったくない。彼らの頭にあるのは、ドラッグやセックス、ゲームやサーフィンで目の前の世界から逃避することだけなのだ。しかしそれでも、視野の外に追いやったはずの郊外から逃れることはできない。

 この映画の登場人物は、誰もが郊外にからめとられ、身動きできなくなっていく。リサの母親は、「ブロンクスにいた時にはいい家族だったが、フロリダにきてバラバラになった」と語るように現実を理解しているが、その表情にはもはや諦観しかない。ボビーは手を洗うこととゲイのビデオにとり憑かれている。リサの思いつきは、マーティやアリへ、アリからドニーやヘザーへと伝染していく。リサと仲間たちは、ピザハットのテーブル席や彼女の部屋で、子供じみたアイデアを出し合いながら、自分たちを呪縛していく。

 そして、あまりにも皮肉かつ悲劇的なのが、彼らとカーフマンのやりとりだろう。リサたちが彼を取り巻き、カメラがぐるぐる回りだす場面では、カーフマンの引っ込みがつかなくなり、彼らはギャングをうまく口説き落とした気でいる。しかし、ドラマが物語るようにカーフマンが仕切っているのは子供ばかりで、とてもギャングとはいえない。現実逃避するリサたちが、そんな人間に頼ったとき、彼らの運命はすでに決まってしまっているのだ。

《参照文献》
『なぜ、いじめっ子は殺されたのか?』 ジム・シュッツ●
山口和代訳(集英社、1998年)

(upload:2013/10/10)
 
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