「モスクワ政府はチェルノブイリ原子力発電所を手放すつもりなどさらさらなかった。発電所はソ連の原子力発電量の十五パーセントを担い、おもにハンガリー向けのエネルギー輸出の八〇パーセント以上を負っていた。たしかに、発電所の運転継続を主張したソ連政府のかたくなな態度は、一九九一年のウクライナの独立運動に拍車をかけた問題のひとつだった。とはいえ、独立国家のロシアが化石燃料の供給に関するエネルギー法案を独立国家のウクライナに示すと、チェルノブイリ原発の運転はウクライナ政府にとってもそれほど悪い話と思えず、政府は発電所の運転を継続し、西側諸国から圧力がかけられて二〇〇〇年にようやく閉鎖した」
この映画は、閉鎖される2年前の原発3号機内部の光景をとらえている。だが、そこで働く技術者のニコライにとっても、そんな国同士の事情や取引はあまり意味がない。彼もまた、不満を抱えながらも、より大きな力と向き合っているからだ。
さらに、オリガとアンドレイの老夫婦にも注目すべきだろう。ジナイーダがプリピャチの街と繋がっていたように、彼らはプリピャチという川と繋がっている。二人は事故の後に一度は移住をしたが、93年に故郷に戻り、ずっとそこで暮らしている。彼らにとって重要なのは、自分たちを育み、恩恵をもたらした川であり、そのために大きな力と向き合って生きる道を選択した。
ゲイハルター監督は、ゾーンの現実を、特別な瞬間や体験としてではなく、日常のなかにある個人と環境の関係として描き出していく。それは、彼らが置かれた状況が、いつ誰にでも起こりうることを示唆している。
実は筆者が、冒頭でゾーンの外と内の時間を対比してみたのは、そんな監督の視点が、文化理論を専門にする研究者ジョージ・マイアソンの『エコロジーとポストモダンの終焉』に通じるものがあるように思えたからだ。
マイアソンは、エコロジーが近代に終止符を打つようなものではなく、未来へ向かう新しい近代的な躍進の契機になると考える。そのキーワードになるのは“リスク”だ。「現代社会は、エコロジー的にみて有害な生活様式をもっていて、それに対して「罰を受けることなく」過ごせるかどうかの計画的ギャンブルを実践している」。そんなリスク社会に対してエコロジーは大きな物語を生み出す。
ゲイハルター監督がこの映画で切り取っているのは、人類の未来や自然やテクノロジーをめぐる大きな物語の礎になるような日常の断片といえるだろう。 |