プロスペローの本
Prospero’s Books


1991年/イギリス=フランス/カラー/126分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:『プロスペローの本』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

ナラティブな要素と実験性が両立する新たな領域

 

 グリーナウェイ版“テンペスト”ともいえる『プロスペローの本』には、シェイクスピアの『テンペスト』と大きく異なる点がふたつある。ひとつは、シェイクスピアではなくプロスペローが劇作家としてこの復讐劇を創作していくこと。もうひとつは、プロスペローの手元には、友人ゴンザーローから託された24冊の魔法の本があるということだ。

 このアイデアはかなり面白い。ジョン・ギールグッド扮するプロスペローは、魔法の本を読み耽り、架空の人物を作り上げ、思うがままに復讐劇を練り上げていく。それというのも、「水の書」や「鏡の書」、「建築と音楽の書」、「死者の書」、「幾何学の書」といった魔法の本には、それぞれに世界を構成し、動かす力が秘められているからだ。

 このプロスペローの姿から筆者が連想したのは、自分の作品を作るグリーナウェイ自身の姿だ。世界を動かす摂理を捩じ曲げ、架空の登場人物を“復讐”のドラマのなかに引き込むプロスペローの目論見は、これまでのグリーナウェイの作品世界に通じるものがある。

 グリーナウェイの作品を観ていると、世界を支えている土台が怪しいものに思えてくる。それはグリーナウェイが、世界をそのように見せている歴史や制度、法則、芸術などに対して、悪意を込めた挑発的で実験的な映像で揺さぶりをかけるからだ。

 たとえば、『ZOO』や『建築家の腹』では、進化論や万有引力の法則が標的にされ、世界の基盤が突き崩される。当然のことながら、彼の映画の登場人物たちは、おびただしい引用によって多方面に広がり、バランスを失っていく世界の真ん中で宙吊りにされる。そんなふうに世界を操るグリーナウェイはまるでプロスペローだ。


◆スタッフ◆
 
監督/脚色   ピーター・グリーナウェイ
Peter Greenaway
原作 ウィリアム・シェイクスピア(「テンペスト」より)
William Shakespeare
製作 キース・カサンダー
Kees Kasander
撮影監督 サッシャ・ヴィエルニー
Sacha Vierny
編集 マリナ・ボドビイル
Marina Bodbyl
音楽 マイケル・ナイマン
Michael Nyman
 
◆キャスト◆
 
プロスペロー   ジョン・ギールグッド
John Gielgud
キャリバン マイケル・クラーク
Michael Clark
アロンゾー ミシェル・ブラン
Michel Blanc
ゴンザーロー エルランド・ヨセフソン
Erland Josephson
ミランダ イザベル・パスコ
Isabelle Pasco
アントーニオ トム・ベル
Tom Bell
シーリーズ ウテ・レンパー
Ute Lemper
エイドリアン ゲラルド・トーレン
Gerald Thoolen
-
(配給:ヘラルド・エース/日本ヘラルド映画)

 そして、土台が揺らぐグリーナウェイの世界のなかで唯一絶対的なものといえば、それは“死”だ。彼の映画は死で幕をおろす。その死は“復讐”とも結びついている。彼のデビュー作『英国式庭園殺人事件』には、妻と娘による主人殺しが暗示され、『建築家の腹』の建築家とその妻の不貞や嫉妬は、『数に溺れて』における不貞を契機とする三人のシシーによるそれぞれの夫殺しに発展し、『プロスペローの本』の前作にあたる『コックと泥棒、その妻と愛人』における夫殺しの鮮烈なクライマックスへと結実する。

 実験映画から劇映画のフィールドに進出してきたグリーナウェイの作品は、前作の『コックと泥棒〜』まで、作品を追うごとにしだいに実験的な要素が影をひそめ、ナラティブ(物語的)な要素が前面に出るようになってきた。それでは『プロスペローの本』の場合はどうか。なんといってもプロスペロー自身が劇中で復讐劇を綴るだけに、いっそうナラティブな方向に進んでいくかに見える。

 この映画では、グリーナウェイを思わせるプロスペローが、復讐劇の登場人物のひとりである天使エアリエルの言葉から、自分が魔法を悪用していたことを悟るという意味で、これまでにない展開を見せる。死という結末が準備されることがない。絶対的なものとしての死にこだわらないということは、グリーナウェイが物語というものにさらに深く入り込んでいることを示唆する。

 しかし、だからとって彼が実験の精神を無くしてしまったわけではない。注目しなければならないのは「魔法の本」だ。『プロスペローの本』は、このアイデアによって映画そのものが、映画以前のメディアと映画以後のメディアの両方から侵食されていくことになる。一方では、ペンによる文字や書物が大きくクローズアップされ、もう一方では映画以後に登場したテレビから発展したハイヴィジョンというテクロノジーがそうした書物の魔法を担う。

 そして、映画を挟み撃ちにするこの新旧メディアの融合である魔法の本が破棄されるとき、映画なるものが顔をのぞかせる予感がするが、最後はギールグッドの台詞と拍手という演劇仕立てで幕が引かれ、最後まで映画的な要素が遠ざけられる。しかしやがて、それらすべてが、映画としての新たな表現であることに気づく。

 グリーナウェイは、自己の作家性をプロスペローに投影することによって、これまでよりも高い次元でナラティブな要素と実験的な要素が両立する領域に踏み出したのだ。


(upload:2012/02/03)
 
 
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『レンブラントの夜警』 レビュー ■
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