そして、土台が揺らぐグリーナウェイの世界のなかで唯一絶対的なものといえば、それは“死”だ。彼の映画は死で幕をおろす。その死は“復讐”とも結びついている。彼のデビュー作『英国式庭園殺人事件』には、妻と娘による主人殺しが暗示され、『建築家の腹』の建築家とその妻の不貞や嫉妬は、『数に溺れて』における不貞を契機とする三人のシシーによるそれぞれの夫殺しに発展し、『プロスペローの本』の前作にあたる『コックと泥棒、その妻と愛人』における夫殺しの鮮烈なクライマックスへと結実する。
実験映画から劇映画のフィールドに進出してきたグリーナウェイの作品は、前作の『コックと泥棒〜』まで、作品を追うごとにしだいに実験的な要素が影をひそめ、ナラティブ(物語的)な要素が前面に出るようになってきた。それでは『プロスペローの本』の場合はどうか。なんといってもプロスペロー自身が劇中で復讐劇を綴るだけに、いっそうナラティブな方向に進んでいくかに見える。
この映画では、グリーナウェイを思わせるプロスペローが、復讐劇の登場人物のひとりである天使エアリエルの言葉から、自分が魔法を悪用していたことを悟るという意味で、これまでにない展開を見せる。死という結末が準備されることがない。絶対的なものとしての死にこだわらないということは、グリーナウェイが物語というものにさらに深く入り込んでいることを示唆する。
しかし、だからとって彼が実験の精神を無くしてしまったわけではない。注目しなければならないのは「魔法の本」だ。『プロスペローの本』は、このアイデアによって映画そのものが、映画以前のメディアと映画以後のメディアの両方から侵食されていくことになる。一方では、ペンによる文字や書物が大きくクローズアップされ、もう一方では映画以後に登場したテレビから発展したハイヴィジョンというテクロノジーがそうした書物の魔法を担う。
そして、映画を挟み撃ちにするこの新旧メディアの融合である魔法の本が破棄されるとき、映画なるものが顔をのぞかせる予感がするが、最後はギールグッドの台詞と拍手という演劇仕立てで幕が引かれ、最後まで映画的な要素が遠ざけられる。しかしやがて、それらすべてが、映画としての新たな表現であることに気づく。
グリーナウェイは、自己の作家性をプロスペローに投影することによって、これまでよりも高い次元でナラティブな要素と実験的な要素が両立する領域に踏み出したのだ。 |