そんなキリンのキャラクターにも、ユー・リクウァイの独自の視点が反映されている。キリンは、偽物=コピー商品を売って本物の現金を稼ぐことをモットーにしている。さらに、ドラマにも“偽物”と“本物”の関係を強調するエピソードが盛り込まれている。キリンと実業家のミスター台湾の間には、余剰生産物となったシューズが偽物か本物かをめぐる押し問答がある。キリンと恋人のリタの間には、偽物と本物の銃をめぐるやりとりがある。
そこで筆者が思い出すのは、ユー・リクウァイが撮影監督を務めたジャ・ジャンクー監督の『世界』のことだ。この映画の舞台は、世界の名所旧跡のイミテーションが並ぶ「世界公園」。このテーマパークでダンサーとして働くタオを主人公にした物語には、コピー商品や偽造の身分証なども絡み、偽者と本物の関係を通して現代中国が描き出されていく。ヒロインの周りの人間たちは、次々と偽物の世界から旅立っていくが、彼女は最後までそこに留まり続ける。偽物の世界のなかになにか本物を見出そうとするかのように。
『PLASTIC CITY』のキリンも、偽物にこだわり続ける。この映画はブラジルで撮影されているが、ユー・リクウァイは明らかに中国社会も意識している。急速な発展を遂げるブラジルを描きながら、それは同時に中国を映し出す鏡の役割を果たしてもいる。では、なぜキリンは偽物にこだわり続けるのか。それは決して本物の現金を稼ぐためではない。心のどこかで、血の繋がりのないユダとの関係が本物の親子のそれに変わることを期待しているからだ。しかし、彼らが親子になるためには、越えなければならない壁がある。
これまでサンパウロの裏社会で築き上げてきた地位が、ミスター台湾や元政治家のコエーリョといった勢力に奪われ、グローバリゼーションが生み出す冷酷なビジネスに街が支配されていくとき、ユダとキリンが生きてきた世界の違いが露になる。ユダは敗北を宣言し、抜け殻のようになるが、彼には戻るべき世界がある。彼の出発点ともいえるアマゾンのジャングルだ。一方、キリンは、心の支えだった恋人のリタを失い、復讐のために多くの仲間を失い、そしてユダを失う。ユダの女だったオチョにまで救いを求めるが、受け入れられることはない。彼は完全に孤立し、死の淵まで追い詰められる。だが、ユダが残した小さな袋を手にすることによって、過去への扉が開かれる。
この映画では、偽物と本物の関係が強調されていると書いたが、そうしたエピソードの積み重ねが、再会したユダとキリンのドラマをより印象深いものにする。ユダはキリンの前で、ある一本の木に切れ目を入れながら、その木が血のような樹液を流すと語る。そして、血のような樹液が、ユダが流す血に変わるとき、ふたりは本物の親子になる。ユー・リクウァイは、儀式を思わせる深遠な表現によって、グローバリゼーションや物質主義のなかで失われていく精神性を呼び覚まそうとするのだ。 |