『プリシラ』、『ミュリエルの結婚』、『ラブ・セレナーデ』、『シャイン』、そしてこの『エンジェル・ベイビー』や『ラブ&カタストロフィ』など、このところオーストラリア映画に注目が集まっている。
ひと口にオーストラリア映画といっても、その内容やスタイルはかなりヴァラエティに富んでいる。それだけに、必ずしも共通する特徴といえるものがあるわけではないが、筆者は、ある程度共通する印象を持っている。それは簡単にいえば、オーストラリア映画には、一見突飛な設定や展開に見えながら、最終的に不思議な説得力を獲得してしまうような魅力があるということだ。
たとえば、三人のドラッグ・クイーンが砂漠を旅する『プリシラ』は、主人公たちと砂漠の取り合わせがあまりにもシュールだが、最終的にはしっかりとアイデンティティ探求の寓話になっていることに気づかされる。
田舎町に暮らす姉妹と隣に引っ越して来たDJの三角関係を描く『ラブ・セレナーデ』では、DJが実は魚なのではないかという謎が膨らんでいくが、この突飛な展開も最終的には男性原理と女性原理をめぐる寓話のなかに驚くほど自然におさまってしまう。
こうした特徴は、かつてオーストラリア映画のブームを作ったピーター・ウィアの『ピクニックatハンギングロック』や砂漠を鮮やかに荒廃した近未来世界に変えてしまうジョージ・ミラーの“マッド・マックス”シリーズなどにも当てはまる。
つまり、オーストラリアという国は、その内部にいまもなお支配しがたい苛酷な自然を抱え込み、そんな風土が、身近な闇、神秘や未知の世界、あるいは寓話となって映画に投影されているのだ。
この『エンジェル・ベイビー』もまた、監督のマイケル・ライマー自身が「現代のマリアとヨゼフの話」と語るように、心に深い傷を負った若い男女の絆が神秘的な魅力を漂わせる寓話である。しかしながら、この映画が新鮮なところは、いま書いたようなオーストラリアの風土というものを直接的に反映するのではなく、あえて現代の消費社会や大都市の日常のなかに神秘的な寓話を作りあげようとしているところにある。
繊細で衝動的なヒロインのケイトは、彼女の想像の世界にだけ存在する守護天使アストラルのメッセージをいつも待っている。しかし、そのメッセージは、神秘的な世界からは程遠い消費社会を象徴するテレビのクイズ番組を通して届けられる。
彼女のこうした行動は、最初は狂気ともとれるが、監督のライマーは、物語の展開のなかで消費社会におけるケイトとハリーの孤立感や疎外感を浮き彫りにすることによって、次第に神秘的な世界を切り拓いていく。
それはたとえば、ショッピング・モールの場面である。ショッピング・モールもテレビと並ぶ現代消費社会の象徴だが、守護天使のメッセージにとりつかれた彼らは、そのなかでトラブルを起こしてしまう。この場面で、倒れ込んだケイトの回りに人々が集まってきたとき、映画は一瞬、彼女の眼差しで人々をとらえるが、そのイメージは印象的である。 |