そして、この『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』もまた、見捨てられた者たちが、生と死の境界を越え、高次の空間に蘇る映画である。青山監督は、この作品だけではなく、以前から様々な設定で、世界との繋がりを失った主人公たちが、境界をめぐるドラマのなかで新たな世界を獲得する姿を描き出してきた。
『SHADY GROVE』で、それぞれに東京に暮らし、世界から排除されていく男女は、もはや存在しない森という外部でお互いを確認することによって、自分たちこそが世界であることに目覚める。『EUREKA』で、重い過去ゆえに世界との繋がりを失った沢井と直樹と梢は、バスの路線が象徴するような日常から外部へと旅立つ。そして、直樹は境界の向こうに飲み込まれ、梢は生と死の狭間で新たな世界を獲得する。
『月の砂漠』で、欲望の果ての妄想に囚われた永井と子供時代の幸福な記憶に囚われた妻のアキラには、もはや一枚の写真という接点しか残されていない。だが、東京ではなく、その写真に刻まれた妻の生家という外部で夫婦が再会し、死と向き合うとき、彼らはそれぞれの呪縛を解かれ、共通の世界を見出す。
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』には、都市とその外部をめぐって、これまで以上に明確な対置がある。ウイルスは都市部を中心に蔓延しているように見える。ミズイとアスハラは、その都市でミュージシャンとして活動していたが、ミズイはエリコの死という絶望によって、アスハラはウイルス感染という絶望によって、世界との繋がりを失い、都市から遠く離れた自然のなかで生活している。
そして、この映画が、これまでの作品と決定的に違うのは、物語に占める音の比重だ。たとえば、『EUREKA』には、ラストの梢の声以外に、ふたつの印象的な音があった。ひとつは、ゴルフクラブの素振りから生じる音で、直樹はそれに反応して殺人衝動に駆り立てられていく。もうひとつは、壁や車体を2度叩く音で、その音の交信は、やがて梢の声に繋がる。それに対して、この映画では、映像と音が対置される。ウイルスは、視覚映像によって感染するように見えるからだ。
それでは、その視覚の力を凌駕する音とはどんな音なのかといえば、それは間違いなく見えないものと共鳴する音だ。ミズイとアスハラは、そういう音の糸口を求めて、貝殻を吊るした角ハンガーやパイプを括り付けたモーターなどの楽器を作る。そして、アスハラまでもが見えないものとなってしまったとき、ミズイは、ハナを救うためだけではなく、見えないものと共鳴するために激烈なノイズを生み出す。
大地を揺るがすそのノイズが、生と死の位相を変えていくとき、筆者の脳裏をよぎるのは、「訪れ」という言葉だ。この言葉には、たずねることだけではなく、声や音をたてるとか、声や音で合図するという意味がある。つまり、「音ずれ」だ。かつて人々は、音によって見えないものを感知した。
この映画には、ミズイがノイズを生み出す前に、「音ずれ」に繋がるイメージが浮かび上がる場面がある。それは、アスハラの火葬の場面だ。砂浜、断崖と巨岩、海、そして炎。この場面には、日本の神話的な、あるいは始原の世界を見ることができる。それは、人々が見えないものを感知する直観や想像力を備えていた世界だ。
そんな世界のなかに葬られたアスハラは、ミズイのノイズによって再び姿を現す。そして、ノイズが消え去ったときそこには、生と死が遠く隔てられるのではなく、静かに響きあい、笑顔で向き合えるような新たな世界が切り開かれているのだ。 |