青山真治監督の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』と大森立嗣監督の『ゲルマニウムの夜』には、いまある壊れかけた世界を乗り越えようとする物語が目指す方向性に共通点がある。どちらの作品も、ただ新しい世界を切り開くのではなく、いまある世界が失ってしまったものを呼び覚まそうとするのだ。
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』に描かれる2015年の世界には、都市部を中心にウイルスが蔓延している。それは視覚映像によって感染し、発病すれば自殺を余儀なくされる。富豪のミヤギは、感染した孫娘ハナを救うために奔走し、ふたりの男が生み出す音に発病を抑制する効果があることを知る。そのふたり、ミズイとアスハラは、東京を離れ、自然のなかで音を探す生活を送っていた。
この映画の題名は、「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という十字架のイエスが発した問いを意味する。青山監督は、森敦の作品集『意味の変容』に収められた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」からタイトルをとった。彼はかつて、この短編に出てくるジャズ・サキソフォン奏者と牧師の話を映画にしようと考えたことがあったという。完成したこの映画の設定や人物はまったく違ったものになっているが、それでもこの短編と映画には深い繋がりがあるように思える。
たとえばこの短編には、以下のような文章がある。「ジャズは必ずしも斬新であろうとするものではない。クラシックの精妙巧緻を粉砕して、始原をとり戻そうとするものである」。ふたりの男たちが見出そうとしている音は、始原を取り戻そうとするものとしてのジャズに近い。
さらにもうひとつ、この短編の後半部分で森敦は、イエスが発した問いや、死と復活を宗教的に解釈するのではなく、生と死にも対応する内部と外部とその境界をめぐる数学的な考え方で解釈している。それを強引に要約すれば、生と死の狭間でイエスが問いを発することによって、境界よりも一次元高い空間が実現され、いままでの生が失われるのではなく、その高次の空間に蘇るということになる。そしてこの映画もまた、イエスと同じように見捨てられた者たちが、生と死の境界を越え、高次の空間に蘇る映画なのだ。
ウイルスは視覚映像によって感染する。そんな映像の力を凌駕する音があるとすれば、それは間違いなく見えないものと共鳴する音だ。ミズイとアスハラは、そういう音の糸口を求めて、貝殻を吊るした角ハンガーやパイプを括り付けたモーターなどの楽器を作る。そして、アスハラまでもが見えないものとなってしまったとき、ミズイは、ハナを救うためだけではなく、見えないものと共鳴するために激烈なノイズを生み出す。
大地を揺るがすそのノイズが、生と死の位相を変えていくとき、筆者の脳裏をよぎるのは、「訪れ」という言葉だ。この言葉には、たずねることだけではなく、声や音をたてるとか、声や音で合図するという意味がある。つまり、「音ずれ」だ。かつて人々は、音によって見えないものを感知した。
この映画には、ミズイがノイズを生み出す前に、「音ずれ」に繋がるイメージが浮かび上がる場面がある。それは、アスハラの火葬の場面だ。砂浜、断崖と巨岩、海、そして炎。この場面には、神話的な、あるいは始原の世界を見ることができる。それは、人々が見えないものを感知する直観や想像力を備えていた世界だ。そんな世界のなかに葬られたアスハラは、ミズイのノイズによって再び姿を現す。そして、ノイズが消え去ったときそこには、生と死が遠く隔てられるのではなく、静かに響きあい、笑顔で向き合えるような新たな世界が切り開かれているのだ。 |