学生起業家から出発してITビジネスの寵児となった永井は、富を得るかわりに、夢を失う。海外市場での上場は果たしたものの、妻と娘は家を出てしまい、学生時代からの仲間も株主の奴隷に変貌した彼を見離す。結局、会社は狡猾な経営アナリストの手に落ち、彼は妻子のもとに帰っていく。
青山真治監督の『月の砂漠』は、その大筋だけを見れば、非常にシンプルな家族の再生の物語である。しかし実際の映画は、現実の揺らぎや歪みを至る所に生みだし、そんな物語を異質な次元へと引き出していく。
たとえば、永井は、妻子が消えた豪邸のなかで、彼女たちがテーマパークで過ごす姿を記録したビデオを見つめつづける。そのビデオは、彼が撮影したか、少なくとも彼はその場にいた、と誰もが思うことだろう。しかし実は、彼女たちに同行したのも、撮影したのも、野々宮という彼の友人なのだ。つまりそれは、家族の思い出でも、彼の記憶でもない。彼はわざわざそういう記録を見つめ、友人が妻を誘惑することすら望む。さらに、偶然出会ったキーチという男娼にも同じことを頼み、キーチはそれを実行する。
この男は一体何を考えているのか。彼の持論はこうだ。「欲しいと思ったものを手に入れると、その欲しかったものは消えてなくなる。あとに残るのは妄想だけ」。そんな彼の世界には奇妙なパラドックスがある。豪邸や会社、あるいはビルボードや雑誌、テレビ番組など、彼が手で触れられたり、彼を映しだすものはすべて妄想だ。だが、他者を介在して立ち上がってくる妻子は、妄想ではない。だから彼は、自分では決して妻子を追わない。
この映画で妄想があるのは永井だけではない。彼の妻アキラは、この世にない両親の姿を頻繁に目にする。そして、娘を連れて、野中にぽつんと建つ無人の生家に帰り、そこで生活を始める。彼女は、両親の幻影を受け入れ、話しかけさえする。さらに、孤独な子供時代の慰めとなっていた動物たちのミニチュアを引っ張りだし、記憶をもう一度、自分で触れられるかたちにしていく。
この時点で、永井とアキラは、彼らの間にある実質的な距離とは比べものにならないくらい遠く隔てられた世界にいる。永井のパソコンの壁紙は、月に立つ人類の写真であり、その先を進みつづける彼にはただの砂漠しかない。一方、記憶のなかに暮らすアキラは、夜空に輝く月にミニチュアの駱駝を重ねる。
彼らは、ほとんど別の世界に存在し、もはや出会うこともなかったはずだが、もうひとつの妄想が彼らを同じ場所に引きずりだす。永井が雇ったキーチは、自分の父親を殺すことに執着し、彼を取り巻く男たちに父親を投影し、永井やアキラを妄想に巻き込む。キーチの妄想からは、もうひとつの月の砂漠が浮かび上がる。彼が持つ携帯の着メロは、<月の砂漠>であるからだ。 |